2001/06/01 (金)
ミッションステートメント 2001年板
夫として2流
父親として2流
建築士として2流
会社員として2流
人生はこんなもんかと思う。
人生に対して、うそをつかず、高をくくらず、
自分を笑い飛ばすことができ、
人にやさしく、決して狎れず、
誰一人傷つけることなく、しかし厳然と許せないものがあることを知っている。
一流の精神というのは、攻撃性よりも受容性の姿を取っている。
2001/06/01 (金)
ミッションステートメント 2001年板
夫として2流
父親として2流
建築士として2流
会社員として2流
人生はこんなもんかと思う。
人生に対して、うそをつかず、高をくくらず、
自分を笑い飛ばすことができ、
人にやさしく、決して狎れず、
誰一人傷つけることなく、しかし厳然と許せないものがあることを知っている。
一流の精神というのは、攻撃性よりも受容性の姿を取っている。
2001/05/30 (水)
徒然草の価値観のゆれ
日本人の内と外
P67
(山崎)…
最近、私はそんな角度で、徒然草を読みなおして、大変面白かったんですが、徒然草は鎌倉末から室町にかけての人の作品ですね。あの中に、平安朝以来の価値観と、新しく起こってきた室町風の価値観の矛盾、葛藤がはっきり出てくるんです。
たとえば、すぐに目に付くのは、まず個人の技芸--芸の問題です。つまり才能があるということですが、これは一方では非常に強く肯定されているわけです。木登りの名人の話まで出てくるくらいで、弓矢の名人、馬の名人はもちろん一芸に秀でた人間の話が次々に出てきます。そしてその一芸に秀でるためには、努力しなければならないという思想が一方で出てきます。何事もうまくなるためには、人前では字を書いて勉強しなければならないのであって、こっそり家で勉強して、うまくなってから人前にでようなどというのは間違った考え方だ、ということすら書いてある。
ところが、そのすぐ次の章で、大体、一芸に秀でるなどというのは恥ずかしいことである。芸などというものは、ある程度出来たところで中途半端でなげうつのがいいのであって、もっといいのは、初めからなにもしないことだといっています。この後者の考え方は、明らかに、世界のどこにもある貴族文明の思想だろうと思うんです。朝鮮には最近まで残っていたそうですが、つまり、貴い人間は働いてはいけないという思想であり、芸に秀でるのは、下品なこととされていたんですね。
(司馬)下品以下の、非常に卑しいことですね。
(山崎)それと同時に面白いのは、数奇という観念が、鎌倉時代になると出てきますね。その数奇についても、当時は互いに矛盾する二つの時代思潮があったらしい。一方では、いろいろ工夫を凝らして数奇を発揮するのは卑しいことだという。考えてみると、確かに藤原時代には、春はあけぼのがいいといえば、これは普遍的な価値の表明なので、私が好きだということとは関係のない話でした。兼好法師も、家財道具を好き好んで工夫するのは見苦しいことだといい、唐物の輸入などは、薬のほかは要らないことだといっています。ところが一方では、ちょうど鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて、数奇の観念が出てくるんですね。一人ずつ違った趣向を発揮するのがよいことだという思想が生まれて、その延長線上に「婆娑羅大名」が出て来たり、さらに先にいけば「かぶき者」まで出てくるわけです。その後一貫して趣向とか数奇とか言うのは、日本人の価値観の中では肯定されるべきこととされています。そう言う意味で、少なくとも世界に肩を並べられるような完全性の観念とか、貴族的普遍性に対する信仰というのは、ほんの短い時期にしかなかったという気がするんです。
2001/05/30 (水)
文化は公と私の中間の領域に生まれる。
日本人の内と外
P112
(司馬)江戸の遊び文化が生まれるのは吉原だけでですね。幕府が吉原だけはうその国だとしてくれて、夜通しどよめきあっていても、またご法度に触れない限り何をしてもかまわないということになり、ありんす国というのが出来るわけです。そこで吉原分化を背負うのは、お大尽としては両替商があったり札差があったりしますけれども、お侍の中では多分に町人化した留守居役がそこでサロンを組みますね。これは決して、藩には還元してくれない文化、その人間だけが役得でそこで享受できる文化で、本当の文化ではない。ですから、結局そこから出てくるモラルというのは、B粋とか野暮とか言う非常に単純なわけ方で下町に下りてくる。/B
(山崎)近世の西洋文化のあり方と比べますと、截然(サイゼン)たる違いがあるんですね。その違いの最たるものといえば、文化と言うものが公と私との中間地帯に出来ているのが西洋です。今でも、西洋の劇場に行くと、ロイヤル・ボックスと言うものがありまして、劇場は宮廷社交の延長の場なんですね。昼間、正服を着て政治をしていた連中が、夜、寝巻きに着替える前の時間、つまりB公私の中間の時間/Bに、イブニング・ドレスをきて夕方の時間を楽しむ。それが劇場の世界であり、宴会、音楽、文学の成立する世界なんですね。いわば、半公半私の時間というものがあって、ここから文化が生まれてきます。それからもちろん教会と広場が、西洋文化の母体ですが、これもまた半公半私の空間ですね。
日本の場合は、一方では教育、読書の部分は完全に感性か去れ、いわゆる芸能の部分は、脳を例外として全部、私の世界に押し込められる。つまり、遊郭を基盤にして狂歌や音楽が生まれ、遊郭を素材として歌舞伎が生まれ、遊郭を素材および場所として多くの小説が生まれるわけですね。したがってこの世界へ行くときは、侍はほおかぶりでもして、身分を隠していかなければならないわけですね。
ところが西洋の劇場は、王様が王様の姿をして出かけられるところでした。しかも、それは宮廷そのものではないわけで、したがって、昼間のようにそこでしゃちこばっていてはいけない。ある緊張とある形式を持ちながら、しかしある程度くだけているという場所になるんです。日本の場合、今でもしゃちこばって、さようしからばの世界と、完全にくだけて四畳半で微酔低吟している世界とが、完全に切れていますね。これは江戸時代の大変な問題だという気がしているんです。
(司馬)なるほど。美術はほとんどポルノ化しますからね。浮世絵のすばらしいのはポルノで、それが江戸時代の代表的な美術になってゆくわけですからね。江戸時代ではそれを代表だとは思っていなかったけれど、明治に開国した後では、代表しされる美術になってしまう。たしかにおっしゃる通り、日本には中間がありませんね。
(山崎)私は実は、その中間の世界こそ都市文化の母体だと思うんです。田舎の世界は、知っている人とだけ付き合う世界で、知らない人間が入ってくると、追い出すかお客扱いするかの、どっちかです。都会というのは、見知らぬ人間と付き合う世界です。そう言うつきあいを成立させる場所は、人間の間に距離を置く必要があり、ある程度、公の場所の性格を持たないといけないんですね。親しいが、距離がある。逆にいえば、距離があるけれども、そこにある人間的親密感を持ちうる。人間は弱い動物ですから、工夫しないとなかなか出来ないので、そこに付き合いの作法というか、形式というか、そういうものが生まれるんですね。
2001/05/30 (水)
少数意見(前衛と古典)が残っていなければ、次の多数意見が生まれてこない。
日本人の内と外
P118
(山崎)なぜかといいますと、文化が生命を保って働いていくためには、そのなかの小数部分が大事にされなくてはいけないわけですね。前衛の部分と古典の部分です。どちらにせよ、現在の多数意見ではなくて少数意見というものが生きていなければ、次代の多数意見は生まれてきません。そこを切り落としてしまうと、文化は変化を停止して循環をはじめるんですね。民謡、民話、盆踊りなどはすべて、100年たっても変わっていません。これは常にその社会の絶対多数を占めていますから、変わりようがないんですね。少数の部分が残っていてこそ、次の新しい可能性のほうに動いていく力が生まれるんです。
2001/05/30 (水)
欲得の話がたちまち、「道」になり精神的なものに変貌する。
日本人の内と外
P129
(山崎)もう一つ、私は木曜島の夜会を読みながら感じたことですが、物質的な欲望といいますか、非常に形而下的な欲得の話が、やがて精神的な高みに行くまでの距離が、日本人において非常に短いような気がするんですよ。
(司馬)時間がね。あっという間にいってしまうところがある。
(山崎)西洋人は、中国人もそうでしょうけれども、欲得がすぐ別の精神的価値を持つというところには、なかなか行かないんだろうと思うんですね。…
(司馬)最初におっしゃったように、それは日本人がカトリックとか儒教とか、普遍的な真理みたいなものに社会ぐるみで参加したことがないからでしょうね。
(山崎)そのわりには、徹底的に推物論者で、徹底的にあさましい我利我利亡者かというと、そうはならないですね。技術への尊敬がそのまま「道」になり、一種の道徳になるわけです。
日本人の場合、武士道の名誉感でも、最初は文字通り戦闘の最中に手柄を立てて、その勇ましい姿を人に見てもらうということがスタートですね。日本の侍が旗印を後ろにつけているのは、要するに後ろ側に軍事記録者がいて、どのくらい働いたかを記録してくれているからだそうですね。ところが、こうして、はじめは論功行賞のために勇ましく死んで見せた侍が、たちまち美しく死ぬようになり、やがて人の見ていない場所でも、潔く死ぬようになります。
2001/05/30 (水)
日本人はすぐに「鉄屋」「綿屋」になってしまう。
日本人の内と外 P127
(司馬)今おっしゃった中国人観は面白いですね。かつての華僑は、今の華僑も大部分そうでしょうけれども、よく言えば商人の本道に立っている、悪く言えば、そんなにお金儲けだが仕事では、人生の面白みに欠けるんじゃないかと言いたくなるところがある。…要するに金融と相場が中心で、それが出来ない人は商品の薄いところへ、他の土地から持っていくという形の商業です。ですから、あつかう品物に好みがないわけですね。日本人には、俺は鉄は嫌いだが、綿は好きだと言うところがあるでしょう。
(山崎)そうなんです。それは非常に面白いことだと思うんです。私は、なぜ日本人には外国の文物に対する好奇心があって、中国人にはなかったのかということを長年考えていたんですが、ひょっとすると、外国の文物ということを棚に上げても、およそ具体的なもの、個々のものに対する愛着というのは、中国人にはなかったのかもしれませんね。
俺は鉄は嫌いだけれも綿は好きだという、不可解な個物への執着、あるいはそれを扱うための技術への執着、そういうものがなくて、常に不変的な価値である金のようなものにひかれるのが中国人なんでしょうね。
(司馬)私には唐以後の中国人について多少偏頗(ヘンハ)な見方が前からあって、つまりは好奇心の薄さというところに置き換えて論じても、論じられるように思ったりします。
(山崎)好奇心というのは、結局、個物に対する好奇心でしかありえないですね。個物に対して普遍というものを見てしまった民族は、どのみち好奇心を持ちようがない。
(山崎)持ちようがないでしょうね。日本では、普遍性の高い文明といったところで、中国文明をきらきらしたかけらとして受け入れているだけで、文明のシステムごと受け入れたことがないのですから、倭寇貿易でも、海賊が書物を仕入れに乗り出していくというような、考えられないことをやりますね。
2009/11/27
型枠の中にぐちゃまぜにした石灰と砂利と水を流し込んで、それでは作業性が悪いから、減水剤とかエアーフローを考慮しましたとかいうより、きっぱり、線材で鉄骨で作る方がカッコイイや、と思っています。で、ガウディは苦手で、ミースが好きなんです。
2001/05/30 (水)
ある技術を身につけることが特別の意味を持つ「この道一筋」の倫理観の誕生
日本人の内と外 P125
(山崎)日本人はすぐ、「道」という事を言いますが、ある技術を身につけることが特別の意味を持っているんですね。なにが具体的な仕事の出来ることが大好きで、それを尊敬する風潮が鎌倉頃から会って、やがて「その道一筋」という倫理さえ生まれてきますね。そこで任務の美学みたいのが出来まして、たとえ目先にもっと儲かる仕事があっても、それには魅力は覚えない。…
(司馬)親方になることが、むしろ卑しいとされることがあるんですね。
(山崎)われわれの生活の論理というか美学の中には、そういうところが、一筋強くあると思うんです。
これに対して、中国人というのは、海が嫌いだというのは別にして、やはり一種の普遍性の信者だろうと思うんです。中国人にとって一番の事業は、試験を通って官吏になることであり、一番幸せなことは、どこでも通用するお金を集めることだと思うんです。
たまたま、現在は百姓や猟師をしているかもしれないが、本当は人生にもっと尊いことがあるわけで、中国人は個々の技術には、生涯満足を感じないのではないかと思うんです。
一方、日本人には、ごく卑近な意味でも生活の一般的な理想はなかったのじゃないでしょうか。つまり、なにになったら一番幸せかというような地位は、普遍的な形ではかつてなかったような気がします。近代になって、日本が西洋風の普遍主義を習ったとき、大臣になるか、博士になるか、あるいは大将になるかというような形で、少しは普遍な価値が出てきますけれども、それまではそれそれ一芸が出来れば、それだけで十分に幸せなことだったのではないでしょうか。
001/05/30 (水)
日本人の大衆社会は500年の伝統がある。
日本人の内と外
山崎正和
(山崎)日本人は、大きく国際進出をすることと、一神教の理解という決定的な二つの点については欠けている。しかし、7割まではある種の西洋人だといえる。しかも、日本人はまねばかりしていたかというとそうでもない。私は一つだけ、はっきりと日本人が創り出したものがあると思うんです。それは、大衆社会です。
(司馬)ええ。
(山崎)大衆社会の条件といえば、まず教育程度の高さ--最高の高さではなくて最低の高さですが--これはまず間違いのないところです。同時に教養と趣味について、基本的に上から下まで等質です。上のほうで連歌会をすれば、庶民が花のもとの連歌会をやるということですね。月並みの俳句は、その辺の長屋でもやっていた。これは大きなことだと思うんです。このわれわれの大衆社会は振り返ってみるとと、ほぼ500年の伝統がある。
(司馬)そうですね。室町時代から500年の歴史ですね。
(山崎)小学校教育についていえば、250年から300年の伝統があるし、往来物の普及から言えば、16世紀以来です。
(司馬)恐らく江戸後期の寺子屋が採用していた教科書の発行部数は、ほんとかと思うくらい、ものすごいものですね。しかも、そのときの教育は今のように、高等学校から大学へ行けという一種の追い立ての教育じゃなくて、「これだけ覚えとかなきゃ八百屋をやるにも不自由だよ」ということで始まった教育ですから、本物なんですね。
(山崎)この大衆社会は、大正時代に花と咲いて昭和の初期まで進み、戦争でちょっと頭を打つんですけれども、戦後またこれを引き継いで、結局、それで今日の経済的成長を遂げている。
2001/05/30 (水)
一神教とは違う、もう一つの合理性のタイプがある。
日本人の内と外
山崎正和
(山崎)問題のありかを明らかにするために、比較的、歴氏を一貫した日本の特質を数えますと、まず異質文化への好奇心が上げられますね。それからもう一つは、自分の生活を毎日よくしようということの関心、広い意味の進歩主義というか、とにかく生活が変わることに対して楽観的であるということです。これは中国人にもインド人にもアラブ人にもなかったようですね。したがって、当然、技術革新とか国債貿易ということに、直ちにつながっていく特性ですね。
それからたしかに日本人は一方では、数の子みたいな群居性を持っていますけれども、その反面、個物への関心が裏にあるために、趣味ということがかなり問題になって、同時にそれが技術尊重おの精神に結びついて、半分だけですけれども、近代個人主義につながる要素がある。それから商業道徳というものがかなり早い時期に生まれていて、商売人は本質的にうそをつかない人間と考える風潮がある。
(司馬)これは非常に澄んだものですね。
(山崎)こういう要素を重ねていきますと、日本人はまず7割くらい西洋人です。島も近代の西洋人だといえる。ところが実際には、西洋人を大きな違いがあるのは当然で、まず、一神教というのは、日本人はまったくわからない。Bある一つの原理からすべてを説明するというようなことは、どうでもいいと思う国民です。/Bしかし、それじゃ合理的でないかというと、そうでもなくて、B合理主義にももう一つのタイプがある/Bわけですね。つまり、一つのものと別のものとに共通の要素を見出して、そこに二つだけの間の共通の原理を見出す。三つ目が出てくると、この三つ目を加えてまたその共通の原理を広げ、四つ目、五つ目とだんだん広げていく。そしてこの範囲だけは合理的に理解できるわけです。しかし、世界の全体がどうなっているか、ということはわからないし、また問題にもしない。日本人にはこういう風な合理主義があるので、事実、その合理主義で17世紀の西洋人がかなりへこまされたわけです。
もう一つ、日本がぜんぜんだめなのは、国際進出で、木曜島のダイヴァーでも、残った日本人というのは、常に暗い海を眺めてひとりさびしくなにやら分けのわからないことを考えている。
001/05/06 (日)
自らの異常を認識せよ
大量の、自立とは無関係の、資本の理論に踊らされる女性たちを作ってしまった。身を得る少女が恥らうこともなく闊歩する社会、恥じることもなく買う男たちをも許す社会を作ってしまった。
私たちがまず知るべきは、こんな社会は本当に異常だということだ。世界広しといえども、他国ではこんな現象はない。島国日本は、海にさえぎられて外の世界の正常を見ることが出来ない。相対化させて自らの異常を認識できない。だが、自らを相対化し、客観視すること無しには、男女共に自己責任など果たせはしない。自立など出来はしない。
己を知らないこの社会は、ますます無防備、無節操に、テレビ、雑誌、インターネットによって、放恣堕落への道を転がっていくだろう。
それでも私たちは生きて行かねばならない。家族が空中分解し、個人がバラバラになっていくことから、身を守らなければならない。とどのつまり、個人に出来ることは、家族において人間の絆を深めていくことしかないのではないか。その絆の中で、失われつつある誇りや自己評価を確認していくことだ。教育も、収入も、自由も、すべてを手に入れたかのよう菜女性たち。彼らが、自己責任で自分の人生をひきうけるとき、はじめて真に輝き始めるのだ。
(日本の危機 櫻井よしこ P318)