良い子症候群(大人びた子供たち),1997/9/3 0:00:00, こうゆうことがないだろうか。
あなたが子供を誉める。それは、その子供がその年齢相応な対応をしたということではなく、その年齢に似合わない、もっと大人びたことであることである場合に限る。
3歳の子供が5歳のように振る舞う。2年生で4年生の問題が解ける。中学生が高校生のような判断を下す。18歳で社会人のような「しっかりした」言動を示す。
われわれはそのようなことを賞賛の対象にする。
それが何を招いているか。その事が何を招いているかあまり考えない。
例えば、10歳くらいの子供が無理をして、表面上を取り繕い、内心とは関係なく大人びたことをすることは少し考えれば、「良い」事ではないはずだ。単純には、当初は悪意はないにしろ、考えていることとやっていることの違いを無視しながら、当面の対象(無論、評価する人間としての大人)の評価軸に合わせて行動する。長期的に考えれば、自分が思っていることと、周りが求めていることとが違う、さらには違っていて当たり前の状況が恒常的に形作られていく。
最近の事件(神戸の14歳の猟奇殺人事件)を契機にマスコミでは、大人びた対応を取りながら、一方ではまったく違った考え方をする子供たち、そしてそういった子供たちを無批判に大量生産しているのではないかとおびえる親、大人のことを問題にしている。いわゆる、狂った子供、そして狂った子供を作る大人、の問題である。どちらか一方だけが問題ではない。その両方があり、それがそれぞれ影響し会う、シンドローム、様々な症状が多方面にわたり発生する症候群である。
子供そのものが狂っているという意見もある。だれもが自分より弱者であればだれでも良かったといって、14歳が10歳の子供首を切断し、自分の学校の前には置かない。特殊な例であり、それゆえ、「狂っている。」
しかし、その同級生の何人かが、そのように考えたことがあり、その行動は、自分でやらないにしても理解できると発言するとき、その意識と行動のギャップに大人たちは沈黙してしまう。
大人が狂っているからだという考えも無論ある。子供を評価し、動機づけし、駆り立てたのは、大人であり、親である。子供の意識が自然発生しているはずはない。彼らは学び、模倣する。大人が作った環境に影響される。氾濫する情報にむしろ翻弄されているのは大人のほうである。それまでならば、個人的なものとされてきた性の情報や、暗い快楽(多くは性的なもの)を含む残虐性を誇張された情報が、漏洩するというよりは、垂れ流され、公然と商品として店頭に並ぶ。金さえ払えば、だれでもが買える。
そのような環境(大人と子供の関係)が、今回の事態の要因であり、社会の主体を現実的に出現させているのが、大人である限り、その責任は重い。
もちろん、そんな事は当たり前であるということも言える。あらゆる時代を通じて、子供の考えと、社会が動く考え(大人の論理)が違っているのは当然のことであるし、少なくとも社会の一員に成熟するためには、その差を如何にして早く、的確に埋めるかということが成熟の第一与件であったはずだ。
態度だけを問題にするにしても、学ぶという言葉は、なぞる、真似するを意味する。実態の行動の意味や内容を理解するより先に、行動として行っていくうちにやがて、意味など分かる。もっと積極的にいうなら、やらない限り、わからない。ある行動の意味を完全に理解するためには、図式的には、その行動の意味する理解レベルの一段上部に自分が身を置いていなければ、十分な理解は出来ないと考えられる。行動の起点から言い直せば、その行動の正確な意味をもてあそんでいる限りにおいては、その行動を事実上行うことは出来ず、一歩もそれ以上の意味にもたどりつけないということだ。この意味からすれば、大人が子供に意味なぞをほとんど問題にせず、結果的には「大人びている」その理由だけで賞賛の対象にしてしまい、そして、子供がそうすることへの動機付けが強制されることは価値のあることであるかもしれない。
子供が子供らしくあるべきかどうかの問題点は、社会の要請(ここでは成熟への期待、と単純化する)と、成熟の過程において、その表面だけをなぞるような、促成栽培的な態度や対応のみが評価に値するかということの判断が必要だ。,,,思い付き,このカードのみ,,アダルト・チルドレン,,,教育