いきなり、秋になってしまった。
青い空。
白石と松陰の場合−−その態度について,1997/9/3 0:00:00,
白石と松陰の場合−−その態度について (「季刊芸術」昭和44年7月)
学問というのは、態度なのである。
白石と松陰のことを考えて、それを書きながらこの項の結論を得ようと思って右のように書いてきたが、結論は別に言う間でもないであろう。
明治以前における最大の人文科学者の一人である新井白石は、その学問はほとんど独学によって得た。師匠についたのは、ある程度の学者になってから木下順庵の門をたたいてその客分のようにして入門した程度である。
松陰も、学校教育を経ることなくしてその教養を深め、思想を醇化し、しかも独学者流の独善的偏狭さやくさみなどは一切なしに自分を成長させることに成功した。この両人に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現がじつに明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問を受け入れて自分の中で育てるということについても良質な態度を、天性なのかどうか、みごとにもっていた。
学校教育のという場は、学問にとって必要ないというのは暴論だが、しかし彼らがもっていたこの態度を持たずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に学校教育の場から離れた場所に身をおいていても、この態度さえあれば学問(その種類にもよるが)は十分にできるという例証になりうるのではないか。,季刊芸術,昭和44年7月,,,,,教育論,,教育
家について,1997/9/3 0:00:00,
家について(明治百年 サンケイ新聞 昭和43年1月3日 「歴史と小説」
我々の民法がそれを証明している。戦前の「家」がなくなり、別な概念が出来上がった。田舎から東京、大阪へ出てきて、月給の4万円もとるようになれば、その当たりの女の子と結婚し、団地にすみ、子を生む。それでもう、家である。
戦前の家がもっていた重厚な伝統と美意識などなく、いかにも手軽で、薄っぺらくて、いかにもインスタントである。そのインスタント家庭の集まりが今日の日本の社会であり、日本国そのものであり、我々がこの社会やこの国を振り返るときインスタントの気安さをありがたがりつつも我ながら薄っぺらく、わびしく、さむざむしく、ありがたみがなさそうに思えるのはそれであろう。
これが現実である。
私は何も過去を賛美し、あの重苦しい旧民法的「家」を礼讃し、あの身の毛もよだつような部分を持つ家族制度の復活と企もうとしているのではない。ただ、過去の人間は深い穴蔵から出てきたことをいっている。その穴蔵には歴史と伝統と秩序と精神美があり、そこから出てくる人間の骨髄に染み込んでいる。それはその秩序に随順しようと、その秩序美に血みどろになって反逆しようと、反逆に価するだけの実容量があり、今の家や社会にはそれがない。浅っぽい穴ぐらから我々が出てくる為に、例えば政治家になればあのように恥がなく、選挙民になれば恥じらいもなく政治家にたかる。しかも日本人でありながら日本人であることを軽蔑してしかこの社会に生きられない。
どうすればよいか。
ということをいっているのではない。これが明治100年の現実であると言っている。今後の日本人の課題としては、この人類史上稀有の一枚張りの大衆社会(むろんそれは世界に誇るにたる)を混乱から救い、秩序を確立し、秩序美をつくり、それを精神にまで高め、かつて江戸期の日本人がついに見事な美的精神像を創り上げたと同様の努力と作業をしてゆくべきであろう。,サンケイ新聞,昭和43年1月3日,新聞,,家族,司馬遼太郎,,家族について,歴史
オームとはなにか。,1997/9/3 0:00:00,オームとは何か。
はやりとしてのオーム
「オームってはやっているんでしょ」という発言があるときく。毎日のワイドショーの特番でくり返し、取り上げられるそれは、芸能界のゴシップを語るキャスターが気の毒そうな表情で語る有名人の訃報と同一レベルである。
異様さは「無差別大量殺人」という言葉がひどく日常的に語られるという点である。その意味では、今回のマスコミも受け取り手である市民も、かつてなかった異様さを「昼のワイドショー」という若干うさんくさいメディアでしか捉えようがないという、取り乱し方をしている点で示しているのかもしれない。
クラブ活動の続き。
オームであらわれる、指導者は一応に似た顔をしている。学歴的には優秀であっても、きっとその中で主導的な学生ではなかった、いじめられる側か、少し距離をおいて孤独な存在、そんな印象がある。
理学系の学生が多く信者になり、今回の事件の実行の中心部隊となっている。彼らが一様にいうのは、「ふんだんな資金、設備」「ある目的を持った、研究開発」という言葉である。ある崇高[でなくともよい]な目的の為に自分の能力が買われており、その遂行の為に自分が使える資金、設備(権力と言ってもいいのか)が十分にある。そのことを、まるで小学生がおもちゃの部屋に迷いこんだような目をして話しているのが印象的だった。彼らにとって、目的などはなるべく荒唐無稽で現実的でないことのほうがよかったのではないかという気がする。
研究室に、鍋があり、ラーメンを作っている。その横には寝袋があって、そこで寝たりしている。とても、大量殺戮兵器を製作している現場とは思われない気楽さというよりもだらしない、クラブの部室のような雰囲気がある。上佑氏
刑事事件としての立証
ところで、刑事事件としては、強制捜査の50日後の現在でも、確定していない!ひょっとして、平成の踏み絵、宗教大弾圧事件ではないのかという嘘のようなオーム側の主張がある倦怠感を持って力を持っている。),,,思い付き,,マスメディアの役割,,,,その他
施政者は手の内を明かさない。,1997/9/3 0:00:00,
施政者は手の内を明かさない。
この戦争を境にして、日本人は19世紀後半に自家製で身につけたリアリズムを失ってしまったのではないかという気がしないでもありません。
ところが戦勝の報道によって国民の頭がおかしくなっていました。賠償金をとらなかったではないかと反発して、日比谷公会堂に集まり国民大会を開き、交番を焼き討ちしたりする。当時、徳富蘇峰が社長をしていた国民新聞も焼き打ちにあう。蘇峰は政府の内部事情に詳しく、”戦争を終わらせることで精一杯なんだ”ということを良く知っていましたから、国民新聞の論調は小村の講和会議に賛成に回り、結果、社屋を焼き打ちにあいました。
日比谷公会堂は安っぽくて可燃性の高いナショナリズムで燃え上がってしまいました。”国民”の名を冠した大会は”人民”や”国民”をぬけぬけと代表すること自体、いかにいかがわしいものかを教えています。,司馬遼太郎,,書籍,このカードのみ,いかがわしい扇動,ナショナリズム,日露戦争,,歴史
ダウンサイジングについて,1997/9/3 0:00:00,
現状の規模であれば、一人で設計、積算までの一貫業務が可能である。
設計単価、などの時間的な変化についての技術部などのフォローが必要。
OA化は、基本的には技術の実践担当者が自らやるべきで、オペレーターがやるという業務自体は無駄。
オペレーターが入力作業を行って効率的といえるのは、集約された「結果」のデータを定型フォーマットに再入力する場合だけで、技術実践の現場での入力作業のほとんどは作業の「過程」ないしは「仮定」と考えるべきで入力作業と同時平行的に「質」的な作業が行われていると考えるべきである。
その意味では技術上の入力業務を業務担当者以外のオペレーターが行うことは「質」向上のタイミングをわざわざ、分断させていることにほかならない。
ソフトの性能の向上で入力作業だけでなく、ここの末端の作業を組み立てながら(一定のシュミレーションをしながら)全体を形成していくことができるような業務が取れるようになってきている。
そのことはかつてのように機械化が全体の構成やシステムを全て「事前に」想定設計し、その想定通りに運用されるという形態を否定している。
設計者としては単に図面が書けるというレベルではなく、書いた図面が直ちにどのような生産コストと生産手法になるかということがリアルタイムにフィードバックされるということが必要である。
今まではその様なフィードバックは「長年の経験」で次第次第に本人の中に蓄積されるということが一般の常識であり、それゆえにその様なことを一人の人間にやらせること自体、土台無理であると考えられてきたし、技術者教育の体制そのものがその様な志向性を示していない。
むしろ、技術を細分化し、分業化を進めること自体が、すなわち技術の高度化であるという認識が無意識の上に働いている。
しかし、一方、その場に働くものの意識としては「一まとまり」の仕事を責任を持って分担させるということが、個々人のやる気や積極性を引き出す上で必要不可欠であり、ここで問題になるのは「一まとまり」の単位が過去からいわれている範囲そのままであるか、と言う点である。
最近の流行言葉である「ダウンサイジング」とは、その様な「一まとまり」だと考えられていた仕事の範囲を現状に即してもっとダイナミックに見直していこうとする運動にほかならない。
「ダウンサイジング」が同時に業務のOA化を意味しているのは「一まとまり」と考えうる仕事の範囲を規定する作業効率(能力と考えてもよい)が電算化を通じての拡張が発生しているからであるとも考えられる。
つまり、電算化が個人能力の拡張器(アクセレーター)として機能しうるということである。むろん、その場合には使用されるハードとソフトが少なくとも「足手まとい」にならない程度に「軽快に動く」ことが前提であることは言うまでもない。,,,思い付き,このカードのみ,パソコンを使う,,,,パソコン
るろうに剣心 エンディング・テーマ,1997/9/3 0:00:00,
るろうに剣心 エンディング・テーマ It's gonna rain Bonnnie Pink,,,,このカードのみ,るろうに剣心,,,,その他
思いの窓の効用,1997/9/3 0:00:00,思いの窓
責任感とは何か。
単純に「責任を取れないものは無能」と思い込んでいる。思いの窓である。
自分の責任範囲をむやみに広げていって、結果として「責任」が取れていない現状の一方で、神経症に陥ってしまっている。
現実的に遂行可能な範囲というよりも、期待範囲に近いのではないか。無論それが、今までは能力アップの源泉であったことは否めない。しかし、年齢的にいえば、むやみに範囲を広げ、その事によって、零れ落ちる無責任さを目こぼししてもらっている時代は終わったと考えるべきである。
思いの窓にだけ、注目してみても、「責任の取れないやつは無能」というのと「責任の範囲がここまで広がってしまえば、完全に出来るはずがない」と書き込まれている。
完全に実行できない、責任感だけであれば、それは必然的に不完全な思いだけが蓄積されることになっていたのではないか。つまり、達成感や満足感がまったくない状況。,,,思い付き,このカードのみ,責任感,,,,自分学
自活のはかりごとに追われる動物,1997/9/3 0:00:00,
自活のはかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさに相撲のごとく苦しいものである。吾等は平和なる家庭の主人として、少なくとも衣食の満足を、吾等と吾等の妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々自己と世間との間に、互殺の平和を見出そうと努めつつある。戸外に出て笑う我が顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの内に殺伐の気に満ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後に我が必死の努力の、回向院のそれの様に、一分足らずで引き分けを期する望みもなく、命のあらん限りは一生続かなければならないという苦しい事実の思い至るならば、われらは精神衰弱に陥るべき極度に、我が精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあると迄言いたくなる。
かく単に自営自活の立場に立って見渡した世の中はことごとく悉く敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引き伸ばすならば、朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度なく自分の敵になりつつある。疲れてもやめ得ぬ戦いを持続しながら、けい然として独りその間に老いるものは、惨めと評するより他に評しようがない。,,,書籍,このカードのみ,互殺の平和,夏目漱石,,,
成果意欲を保証するものは何か。,1997/9/3 0:00:00,
成果意欲の湧かないことを他人のせいにすることは間違っている。どんなに高度な目標を掲げたところで(そうでなければ、「目標」とは呼べないという意味で )個々の人間が日々活動する内容は、目標が目標たる与件を備えていればいるほど、己自身が解釈し、創造する必要があるのは自明である。それをわかったうえでなお、「上がアホやから、野球がでけん」というのは、単に責任を自分以外の誰かに、委ねてくだを巻くことにしかならない。
とはいえ、組織が階層をなして存在するものである以上、個人全体を意味しないまでもさまざまなレベルで「ぶら下がり」は生まれる。自己矛盾、である。一方では、あらゆる拘束からの自由を希求し、何事も己で決めたいとわめきつつ、「それを決めてくれない、あんたのせいだ」と口にしてはばからない、愚かしさ。それは、怠惰と呼ぶべきか。それは、弱さと呼ぶべきか。…
人は、本来的には「アホ」ではないので、そんな事は分かっている。十分にわかったうえで、なお「これは俺の仕事ではない」といっている。少し考えれば、すぐに分かるし、気づきもする。ただ、自分の領域を勝手に決めているだけである。
実体的に、かなり組織化された集団の中にあっても、領域が明瞭でないことが一般的な組織の特色である。領域が明確、または明快である組織は、逆にいえば、すでにその組織体の生命がつきつつあることを示していることに他ならない。組織成長する最中では、その構成要素が担うべき役割は弾力性に富み、状況に対応して、伸びたり縮んだりしているはずである。変化への対応が否も応もなく、それを求めているし、成長の圧力は、分担など頓着しない。
だから、本来必要なものは、組織に対する「帰属」意識だけである。けっして「規則」ではない。「帰属」する組織が危機を迎えるとき、人はだれでも防衛しようとする。能力の如何に関わらず。,,,思い付き,,帰属意識,,,,その他