2001/05/30 (水)
欲得の話がたちまち、「道」になり精神的なものに変貌する。
日本人の内と外
P129
(山崎)もう一つ、私は木曜島の夜会を読みながら感じたことですが、物質的な欲望といいますか、非常に形而下的な欲得の話が、やがて精神的な高みに行くまでの距離が、日本人において非常に短いような気がするんですよ。
(司馬)時間がね。あっという間にいってしまうところがある。
(山崎)西洋人は、中国人もそうでしょうけれども、欲得がすぐ別の精神的価値を持つというところには、なかなか行かないんだろうと思うんですね。…
(司馬)最初におっしゃったように、それは日本人がカトリックとか儒教とか、普遍的な真理みたいなものに社会ぐるみで参加したことがないからでしょうね。
(山崎)そのわりには、徹底的に推物論者で、徹底的にあさましい我利我利亡者かというと、そうはならないですね。技術への尊敬がそのまま「道」になり、一種の道徳になるわけです。
日本人の場合、武士道の名誉感でも、最初は文字通り戦闘の最中に手柄を立てて、その勇ましい姿を人に見てもらうということがスタートですね。日本の侍が旗印を後ろにつけているのは、要するに後ろ側に軍事記録者がいて、どのくらい働いたかを記録してくれているからだそうですね。ところが、こうして、はじめは論功行賞のために勇ましく死んで見せた侍が、たちまち美しく死ぬようになり、やがて人の見ていない場所でも、潔く死ぬようになります。