Group:=terra 未分類
Title:=難しいことを易しく、易しいことを面白く、面白いことを深く、
From :=WorkPad 版 Palm Desktop
Create:=00/08/26 10:22
Udate :=00/09/15 14:48
難しいことを易しく、易しいことを面白く、面白いことを深く」書いてあるのが優れた書物である。
00/5/17
井上ひさし
Group:=terra 未分類
Title:=難しいことを易しく、易しいことを面白く、面白いことを深く、
From :=WorkPad 版 Palm Desktop
Create:=00/08/26 10:22
Udate :=00/09/15 14:48
難しいことを易しく、易しいことを面白く、面白いことを深く」書いてあるのが優れた書物である。
00/5/17
井上ひさし
Group:=terra 未分類
Title:=自分の仕事に誇りを持てなければ、成功はおぼつかない
From :=C:\My Documents\TXT\誇りを
Create:=00/07/23 12:19
Udate :=00/07/23 12:19
1999/09/07 (火)
自分の仕事に誇りを持てなければ、成長はおぼつかない。
誇りを持たせるにはそのための環境がいる。
単に指導すると言う環境だけではなく、教え、教えられる環境であることが必
要である。一方通行の指導だけでは、もっとも必要な自主的な成長の環境が創
り出せない。有能な指導者とは、人から教えてもらうことで、教えているほう
も成長させうる人のことを言う。
Group:=terra 未分類
Title:=管理の定義
From :=WorkPad 版 Palm Desktop
Create:=00/08/26 10:16
Udate :=00/08/26 10:16
管理の定義
990416
管理とは部下の自発的な努力と協力により、あらかじめ定められた目標を達成する技術である。
Group:=terra 未分類
Title:=なぜおちこむのか
From :=WorkPad 版 Palm Desktop
Create:=00/08/26 10:25
Udate :=00/08/26 10:25
なぜおちこむのか
00/7/18
自己認識と評価のギャップ
仕事をしていないという自己険悪
目に見える成果がない
この業務は自分には適していない
反りがあわない
前のほうがよかった
あいつは無能。無能な奴にすら評価されない、
だらだら時間を食っているだけ。
Group:=terra 未分類
Title:=誇りを持たせるにはそのための環境がいる。
From :=C:\My Documents\TXT\誇りを
Create:=00/09/15 14:32
Udate :=00/09/15 14:53
1999/09/07 (火)
自分の仕事に誇りを持てなければ、成長はおぼつかない。
誇りを持たせるにはそのための環境がいる。
単に指導すると言う環境だけではなく、教え、教えられる環境であることが必
要である。一方通行の指導だけでは、もっとも必要な自主的な成長の環境が創
り出せない。有能な指導者とは、人から教えてもらうことで、教えているほう
も成長させうる人のことを言う。
50音順ガイドの発想
2000/11/03 (金)
50音順のリストによって検索したほうが早いという発想は、検索する人が
素人であるという前提に立っている。
玄人、または組織の中のヒトの発想では、全体の体系、または組織図がわか
っていることを前提に、たとえば、技術統括部は本社にあり、資材課と安全品
質課は技術統括部内にあることを知っているから、ツリー上の案内図を作って
しまう。しかしこれは組織図を知らない外部のヒトには通用しないから、単純
に50音順に並べるべきである。
すなわち、安全品質課、資材課、技術統括部、という順に並ぶことになる。
あ→し→ぎ、の順になる。
ヨーロッパの旅行ガイド「ミシュラン」は完全なアルファベット順だったの
で、ヨーロッパの地理も路線も、言葉さえ知らない日本人でもつかえた。しか
し、トウキョウのガイドブックには索引すらついていないケースが多い。と言
うことは、西郷隆盛の銅像は上野にあると言うことを知らなければ、見つけ出
すことが出来ない。これは「ナポレオンの墓がアンバリッドという場所にあ
る」を知らなければたどり着くことが出来ないという事を意味するが、実際は
ミシュランではナポレオンを引くとアンバリッドのことも墓のことも出てくる。
これは一種の百科辞典形式ということだ。徳川家康を引けば、岡崎も三方が原
も長篠も堺も長久手も江戸も大坂も日光も出てこないとだめということだ。
Group:=terra 刃を研ぐ
Title:=『ロマン』『ソロバン』『ジョウダン』
From :=日経ビジネス 2000.8.28
Create:=00/09/06 15:52
Udate :=00/09/06 15:58
『ロマン』『ソロバン』『ジョウダン』
日経ビジネス 2000.8.28
くらたまなぶ氏
起業のための必須三条件。
①人に聞きまくる
②資料を読みまくる
③とにかく実践
これは作業の3条件。
「意義と金」
①世のため人のためになる。
②稼げる、儲かる
③(たずさわって)面白い、好き
夢、金、愛
Group:=terra 刃を研ぐ
Title:=失敗を積極利用する
From :=00/8/31 読売新聞 朝刊
Create:=00/09/01 7:17
Udate :=00/09/29 16:50
失敗を積極利用しよう
畑村 洋太郎 東大教授
うまく行く方法を教えるよりも、まずくなった筋道を教えるほうがよほど効果が大きい。
そして、失敗の積極利用の必要性を痛感し、「続々・実際の設計ー失敗に学ぶ−」を出版した。
それらの活動から、
失敗には許される失敗と許されない失敗があること、
行動してして失敗をしなければ知識や経験の受け入れの素地としての体感・実感は得られないこと、
この体感・実感が教育や技術伝達の基本であること、などを知った。
つまり、失敗の見方を変え、積極的な取り扱いが必要だと学んだのである。
失敗を捉える視点を考える。
失敗の原因は多層に重なっており、多くの様相で結果が現れる。単一の原因だけで失敗が生まれることはまれで、その場合の結果が軽微だ。
技術分野の失敗をそれを技術的な側面から取り扱うのは当然であり、場合によっては責任追及も必要になる。しかし、心理的・経済的・法律的・社会文化的・経営的側面からの取り扱いも必須である。すなわち、失敗を立体的に捉える必要がある。
失敗知識の伝達について考えよう。
失敗知識の活用にはその伝達が不可欠だが、失敗事例の情報のままではなにも伝わらない。失敗情報から構造性を持った失敗知識にまで高めて初めて伝達可能となる。
受けて側からすると,結果についてだけ知らされても何もわからない。そこに到る脈絡まで知ったときにはじめてわかる。つまり,失敗に到る脈絡と知識の記述ではじめて伝達可能である。
失敗を生かすためにいくつか肝に銘じておく必要のあることがある。
①原因究明と責任追及を分離する。失敗情報はもともと隠れたがる。原因究明と責任追及を完全に分離しないと真の原因をつかめず,失敗を生かせない。
②失敗は予測できる。予測してそれを防がないのは,失敗の下地を放置し,予兆を無視し,顕在化させない力が働くからである。
③産業が成熟すると,社会的影響が大きいにもかかわらず,すべての作業がマニュアル化・単一化される。システムは外乱に対し硬直化・脆弱化する。これが顕著に現れているのが,原子力・半導体・大領輸送機関・食品・医療などである。
④部分的に最適化することが全体にとって最悪をもたらす。全体を知り,自分の仕事が全体とどう係わるかを知って働く人間を育てる意外に王道はない。
⑤管理の強化では失敗は防げない。精神論も役に立たない。失敗の特性を知った工夫が必要である。
これらの考えを元にして,失敗を生かす具体的方策として,次の三つを提案したい。
一つは、失敗知識のデータベース作りだ。単に多数の失敗事例を集めても誰も使わない。使う人が欲しくなる,事象・経過・推定原因・対処・結果・総括などで記載し,原因・経過・結果について典型的なもので構成されるようにする。
二つ目は、失敗の知識と体験が得られる場を提供することだ。例えば,過去の技術的失敗や事故の展示,ネットワークによる発信,失敗の疑似体験の提供などを行う失敗博物館を作ってはどうか。
三つ目は,失敗を生かしたほうが特になる経済システムの構築だ。全企業活動の評価に環境対策と同じく失敗対策を施すことがプラスに算定される時価会計方式を創出するのはとても有効であろう。
畑村 洋太郎
東大大学院修士課程修了。日立製作所勤務を経て現職。専門は産業機械工学。
Group:=terra 刃を研ぐ
Title:=7つの習慣
From :=C:\My Documents\TXT\7habit
Create:=00/09/15 14:12
Udate :=00/09/15 14:12
7つの習慣
親として極めて自然な役割は、息子を肯定し、愛し、尊び、彼の成長を楽しむことだと理解した。息子が「よい子」あるいは「できる子」であるということに心の安定を求めることをやめて、自分たちの内的な安定性を高めるように努めた。
自らの心を熱心に探せ。その中から命の泉はいずるからである。(聖書)
自分の人格に基本的な欠陥、二面性、あるいは不誠実さを持ちながら、テクニックや手法だけで人を動かしたり、仕事をさせたり、士気を高めようとしたりすれば、長期において成功することはできない。
#!H=2農場のシステム
農場で場当たり的な詰め込み主義で作業することの愚かさを考えたことがあるだろうか。――春に種まきを忘れ、夏は遊び惚けて、秋になってから収穫を得るために必死になってがんばる。 ――農場は自然のシステムである。必要な務めを果たし、作業を行わなければならない。蒔いたものしか刈り取ることはできない。そこに近道はない。
人の成長や人間関係においても、最終的にはこの原則が必ず作用することになる。つまり人の成長も人間関係も自然のシステムであり、農場の法則が支配しているのである。
学校のような人工的な社会システムでは、ゲームのルールを学べば、短期的にはごまかすことができるかもしれない。そしてまた、単発的、短期的な人間関係であれば、同じように個性主義を利用して、その人の趣味にあたかも興味があるふりをし、テクニックや殺し文句、流行のファッションなどを使い、よい印象を与えることは可能だろう。また手っ取り早くそうしたテクニックや手法を身につけて、活用することもできるだろう。
しかし、長期的な人間関係においては、こうした二次的なものだけでは何ら永続的な価値を生み出すことはできない。あなたに本当の誠実さや人格の良さがなければ、人の関係において大きな問題に直面したとき、あなたの本当の動機が表面に現れ、その結果、人間関係が崩れ、それまで得ていた見せかけの「成功」を失ってしまうことになるだろう。
表面的な成功(才能などに対する社会的評価)に恵まれた人の中でも、こうした真の成功(優れた人格を持つこと)を達成していない人もいる。しかし、遅かれ早かれ、このことは、その人の持つ長期的な人間関係のすべて−−仕事仲間、夫・妻、友人、大きな悩みを抱えている子どもなど−−において、あらわれてくるだろう。人格は、言葉よりもはるかに雄弁だからである。
#!H=2パラダイムの概念
パラダイムという言葉は、ギリシャ語に由来している。もともとは科学用語として使われていたが、最近ではモデル、理論、知覚、既成概念、仮定、あるいは一定した見地を指す言葉として広く使われている。もっと一般的にいえば、パラダイムは世界を見る見方であり、私たちの認識、理解、解釈を決めるものである。
人格主義と個性主義のいずれもが、社会的パラダイムの一例である。
ここでは、パラダイムを簡単に理解するために、地図に喩えてみることにしよう。地図と、地図の示している現実の場所そのものとは、同一ではない。地図は、現実のいくつかの側面を表現しているに過ぎない。パラダイムはそれと同じようなものだ。つまりパラダイムはある現実についての理論、説明、またはモデルのことである。
たとえば、シカゴに行く際、シカゴの道路地図を持っていれば、とても役に立つだろう。しかし、その地図が間違っていたらとしたら、どうなるだろうか。シカゴという表題のついている地図が、実は印刷ミスでデトロイトの地図だったらどうなるか。目的地に向かうときの苛立ちや効率の悪さを想像することができるだろうか。
そうなると、まず自分の行動を振り返り、改善しようとするだろう。たとえば、もっと熱心に目的地を探し、二倍の速度で走り回るかもしれない。しかし、そうした努力の結果といえば、間違った場所に二倍の速さでたどり着くだけである。
あるいは、自分の取ってきた態度を反省し、改善しようと試みるかもしれない。つまり、前向きに考えるということだ。この場合も目的地にはたどり着けないが、それは一向に気にならない。なぜなら、その場所がどこであっても、積極的でプラス志向になっているので、満足できるからである。
しかしながら、依然として道に迷っていることには変わりない。根本的な問題は、行動や態度とは何ら関係ない。すべては地図が間違っていることに起因しているのである。
(お互いのパラダイムが異なれば、)二人の人間が事実を見ながらも違う意見を持ち、しかもその両方ともが正しいことがありえるという事実を、衝撃的かつ鮮明に証明して見せた。
この演習は、私たちの生活や人間関係のあり方について実に多くのことを教えてくれるものである。
まず、経験によって条件付けが私たちの知覚やパラダイムにどれほど強烈な影響を与えているかをよく示している。ほんの十秒間程度の条件付けでさえ、これほどまで強く私たちの見方に大きな影響を与えているとすれば、今までの人生で受けてきた条件付けには、どれほど巨大な影響力があるだろうか。家族、学校、会社、友達、宗教、そして個性主義などの社会通念、それらすべてが無意識のうちに私たちに影響を与え、私たちのものの見方、パラダイム、頭の中の地図の形成に作用しているのだ。
この演習から、パラダイムが、私たちの行動や態度の源になっているということも分かる。自分のパラダイムと合わない行動を、正直な気持ちで行うことはできない。自分の見方と一致しない行動や言葉をもって、一貫性と誠実さを保つことは不可能である。‥‥(中略)‥‥
ここで、個性主義のおおきな欠点の一つが浮き彫りにされることになる。それは行動や態度の源泉であるパラダイムを見つめることなく、表面的な行動や態度を変えようとしても、長期的に見てほとんど意味がないということである。
この演習から選られるもう一つの教訓は、周りの人との接し方もパラダイムによって決まるということだ。自分は客観的かつ正確に物事を見ているつもりでも、他人もまた、鮮明かつ客観的にまったく違った見方をしている。「立場はその人の立っている場所によって異なる」ということである。
人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているに過ぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。しかし、この演習から学べるように、誠意があり勝つ知力に恵まれた人たちでも、それぞれの経験というレンズ(パラダイム)を通して、同じ事実について異なる見方をするのである。
これは、事実が存在しないということを意味するのではない。演習の中で違う条件付けを受けた二人が合成した絵をいっしょに見る場合、その二人ともが同じ事実を見ているのだ。すなわち、黒い線と白いスペースである。二人ともこの事実は認めるが、その事実をどう解釈するかは過去の経験によって決まるということなのである。事実そのものは、この解釈を抜きにすれば何の意味も成さない。
自分の持っているパラダイムとそこからもたらされる影響を意識すれば意識するほど、自分のパラダイムに対する責任が取れるようになる。つまり、自分のパラダイムを現実にすりあわせ、他の人の意見やパラダイムに耳を傾け、より客観的で完成された味方ができるようになるのだ。
よい方向であろうがなかろうが、一瞬にして起ころうが徐々に起ころうが、パラダイム転換によって、ある一つのものの見方が別の見方へと移行し、そしてその転換は大きな変化の原動力になる。正しくても間違っていても、私たちのパラダイムこそが私たちの行動や態度の源であり、やがては人間関係のあり方まで決めてしまうものなのである。
パラダイムを、人格から切り離すことはできない。それは「どうあるか」は「どう見るか」に直結しているからである。見方を変えれば、あり方も変わる。そしてその逆もしかりである。
余裕を持つ。(周りを冷静に見る。)
謙は亨る。君子に終わりあり。
つまり、原則は灯台である。それは破ることのできない自然の法則である。
『十戒』という映画の製作で有名になったセシル・B・デミル監督は次のように発言した。「神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が敗れるだけだ。」
わたしの言っている「原則」は難解なものでも、不可思議なものでも、また宗教的なものでもない。この本の中で述べる原則は、一つとして限られた宗教や信仰に属するものではない。こうした原則はすべての宗教、社会哲学、倫理体系の中に見つけることができる。どれも自明であり、私たちの生活の中で実証できるものばかりである。こうした原則、あるいは自然の法則は、人間の普遍的な意識、もしくは両親に属するものである。社会的な条件付けやその原則に対する忠実さの度合いは異なるとはいえ、こうした原則はどんな人の意識の中にも必ず存在している。
ここで言っている原則とは、例えば「正義」の土台となる「公正さ」である。子どもを見れば、条件付けや経験と関係なく、人間はこの公正さの感覚を生まれながらに持っているということがわかる。公正さの定義の仕方やその達成にいたるプロセスにはさまざまな違いがあっても、概念そのものは誰もが意識している。
また、他の例として、「誠実」と「正直」があげられる。この二つの原則は、協力関係や長期的な人間関係を育てるのに必要不可欠な土台をなすものである。
原則は手法ではない。手法は具体的な活動、あるいは行動である。したがって、ある状況で使える手法が必ずしも別の状況でも使えるとは限らない。二番目の子どもを最初の子どもと同じように育てようとしたことのある親なら、すぐに分かるはずだ。
手法はある特定の状況においてしか適用できないが、原則は深い基礎的な心理であり、普遍の応用がある。そして、個人、人間関係、家族、あらゆる組識に当てはめることができる。こうした心理を習慣として身につければ、人々は自分が直面している状況に対応できる手法を自分で打ち出すことができるのだ。
また、原則は価値観とも異なる。例えば、強盗段でも価値観を共有することはできる。しかし、その価値観はここで話している基本的な原則とはまったく違うものであり、それに相反するものである。原則は、"場所"そのものであり、価値観は"地図"である。正しい原則に価値をおけば、真理−−物事のあるがままの知識−−を手に入れることになる。
原則は、永続的な価値を持っており、人間の行動に正しい方向性を与えてくれるガイドラインとなる。それは基本的なものであり、しかもだれもが知っているので議論する余地すらない。それは、こういった原則に反する価値観に基づいて、質の高い生活を営もうとする愚かさを考えれば、すぐに分かることだ。不正、偽り、卑劣、無駄、凡庸、堕落などが、永続的な幸福と成功の健全な土台になると考える人はいないはずである。原則の定義や実行の仕方についてはいろいろな議論があるだろうが、人間は生まれながらにしてその存在を知り、それを意識しているのだ。
#!H=2個性主義、それに頼り切る現代社会
個性主義は時として成功しているかのようにみえるが、長期的には必ず化けの皮が剥される。個性主義は、人を欺きだますものだ。個性主義のテクニックや応急処置的な手法で質の高い生活を入れようとすることは、デトロイトの地図でシカゴの場所を探そうとするようなものである。
個性主義のもたらす結果を鋭く観察した心理学者エリック・フロムの言葉によれば、
「現代社会で出会う多くの人々は、まるでロボットのように機械的に振る舞い、自分のことを知り模せず理解することもない。唯一知っているのは、社会が要求しているイメージだけである。真のコミュニケーションをもたらす語らいの代わりに、意味のないおしゃべりを繰り返し、心からの笑いの代わりに見せかけだけの笑顔を作り、心底からの痛みの代わりに鈍い絶望感しか味わっていない。こうした人間についていえることが二つある。一つは、彼らが治療の施しようもないほど自発性と自分らしさの欠乏に悩んでいるということであり、もう一つは、実質的にほとんど私たちと変わりがないということだ。」
テニスやピアノなど、ごまかしがまったく聞かない分野において成長のレベルは意識しやすい。しかし、人格や精神の成長に関しては、ごまかしが効くこともあるので成長のレベルを簡単に測ることができない。他人の目を欺こうと格好をつけたり、着飾ったりすることは簡単である。できる振りをすることも可能だろう。自分自身さえも騙せるかもしれない。しかしながら、ほとんどの人は、自分自身の本当の人格レベルを知っているだろうし、長期的には周囲も必ずその真実を見ぬくだろうと、わたしは確信している。
「力を借りることは、弱さを作り出す。」まず、力を借りた人が弱くなる。なぜなら、物事を成し遂げるために、外的な力に一層依存するようになるからだ。そしてまた、強要された人も弱くなる。自主的な判断力や自制の力が育たないからである。最期にはお互いの関係も弱くなってしまう。協力の代わりに恐怖が生まれ、一方はますます横暴に、そして一方はますます防衛的になっていくからである。
体の大きさ、地位、権限、肩書き、用紙、過去の実績などが力の源泉になっている場合、それが変化したりなくなってしまったりすれば、果たしてどんな結果になるだろう。
#!H=2問題の見方が問題なのだ。
効率を上げることが本当に問題の根本的な問題になるのだろうか。より少ない時間でより多くのことを成し遂げるだけで、本当に生活がよくなるのだろうか。もしかすると効率を上げることによって、今自分の人生をコントロールしている状況や人に反応する時間が早まるだけではないのか。もっと深く根本的にみなければならないことはないだろうか。時間、人生、自分自身についてのパラダイムがこの問題を作り出しているということはないだろうか。
#!H=2インサイド・アウトという新しい考えのレベル。
インサイド・アウトとは、自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム、人格、動機などを変えることから始めるということである。
このアプローチによれば、あなたが模し幸せな結婚生活を送りたければ、積極的なエネルギーを生みだし、消極的なエネルギーを消し去る伴侶になるということである。
子どもが、明るく協調性のある人間に育ってほしいと思うならば、子どもへの理解を深め、子どもの視点に立ち、一貫した愛を示す親になるということである。
‥‥(中略)‥‥
信頼されたければ、信頼性のある人間になるということである。
才能が認められるという二次的な成功がほしければ、まず人格と能力を向上させるという一時的な成功に焦点を合わせることである。
インサイド・アウトの考え方では、私的成功が公的成功に先立つ。つまり、他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということである。また、人格よりも個性を優先することは愚かなことであり、自分自身を改善せずに他の人との関係を改善することは意味のないことだと教えている。
インサイド・アウトは、人間の成長と発展を左右する自然の原則に基づいた、継続的な再新再生のプロセスである。それは上向きの螺旋状に成長していく循環であり、次第に高まっていく責任感ある自立と効果的な相互依存に導くものである。
アウトサイド・イン(外から内へ)のやり方の結果としてわたしがみてきたものは、被害者意識に悩み自由を束縛された不幸な人々であり、自分のうまく行かない状況の責任を周りの人や環境のせいにする人々であった。不幸な結婚生活では、相手がまず変わることをお互いに要求し、相手の罪を言い立て、相手を正そうとしている夫婦を見てきた。また、労使間の争いでは、信頼という土台があるかのように行動することを強要する法律を政府に確立させようと、膨大な時間とエネルギーが無駄に費やされるありさまを見てきた。
‥‥(中略)‥‥
これらに関係しているグループは、それぞれ問題は「外」にあると考えており、彼ら---敵対する人々--が態度を改めるか、あるいはいなくなりさえすれば問題は解決すると考えている。
こうした原則を理解し、生活に取り入れるように誠心誠意努力するとき、私たちはT・S・エリオットの言葉にある真実を再三再四発見することになるだろう。
「われわれは探求をやめてはならない。そして、われわれはすべての探求の最後は、初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。」
#!H=2人生の扉を開く
相互依存への道
「7つの習慣」は、つながりのない断片的な行動規範ではない。それは正しい原則に基づいた順序だった、きわめて総合的な、私たちの生活や人間関係の効果性を向上させるアプローチである。この「7つの習慣」を身につけることにより、次第に依存から自立へ、そして自立から相互依存へと成長していく。
人はみな、最初は依存しきった赤ん坊として人生を始める。誰か他の人によって方向づけられ、育成され、養われる。もし誰かの保護が泣ければ数時間、あるいは数日間しか生きることはできない。
しかし、年月が経つにつれて徐々に肉体的に、経済的に、知的に、そして精神的に自立していくことになる。基本的に自分のことは自分でやり、自己決定の出来る、独立した人間に成長していくのだ。
さらに成長と成熟を続けると、自然界のすべての要素は相互依存関係にあるということを意識するようになる。つまり、自然界や私たちの社会のすべては、生態的なシステムで成り立っていることに目覚めるのである。そして、自分の本質の最も崇高な部分は周りの人との関係に関わるものであり、人間の生活そのものも相互に依存しあっているということが分かるようになる。
この成長のプロセスを理解するために、それぞれの成長のレベルにいる人の持つパラダイムを見てみることにしよう。
成長の連続体において依存状態にいる人は、「あなた」というパラダイムを持っている。「あなた」が私の世話をする。「あなた」が結果を出してくれる。「あなた」がやってくれないとだめだ。結果のでないのは「あなた」のせいだ、ということである。
自立は「私」というパラダイムである。「私」は出来る。「私」の責任だ。「私」が結果を出す。「私」は選択できるということである。
そして、相互依存は「私たち」というパラダイムである。「私たち」は出来る。「私たち」は協力する。「私たち」が才能と能力をあわせれば、もっとすばらしい結果を出すことが出来る、ということである。
依存している人は、欲しい結果を得るために他人に頼らなければならない。自立している人は、自分の努力によって欲しい結果を得ることが出来る。そして相互依存している人々は、自分の努力と他人の努力を引き合わせて最大の成果を出すのである。
仮に私が肉体的に依存しているとしたら(身体に不自由な個所がある場合など)あなたの手助けが必要になるだろう。また、精神的に依存していれば(私の自尊心を安定性があなたの意見やわたしに対する評価に依存している場合)あなたに嫌われでもしたら大打撃を受けるだろう。知的に依存しているとすれば、生活の問題や課題について、あなたが考えてくれないと何も解決できないだろう。
しかし、自立していれば、肉体的に自分で行動が出来るし、知的に自分で考えることが出来る。そして、さまざまなレベルで思考することが出来、創造的に自分の考えを分析、整理し、分かりやすい方法でそれを表現することが出来る。精神的にも内的な安定性があり、他人が自分のことをどう思おうと関係なく自尊心を持つことが出来る。自分の方向性は自分の中から出るものだからである。
このように、自立は依存よりはるかに成熟した状態だということは容易に理解できる。自立だけでも大変な思考なのだ。しかし、自立は最も高いレベルではない。
それにもかかわらず、現代社会のパラダイムでは、自立を王座につかせている。自立は多くの個人、または多くの社会運動の公然たる目標になっている。自己啓発の文献のほとんどは、コミュニケーションやチームワーク、あるいは協力などはまるで価値のない考えのように扱っている。現代社会において、このように自立が強調される主な原因は、今までの深い依存状態(他人にコントロールされ、定義づけられ、利用され、操られること。)に対する反発である。
本当の相互依存という概念はほとんど理解されていない。多くの人は自立を求めるあまり、わがままな理由で離婚したり、子どもを捨てたり、あるいは社会的責任をすべて放棄しようとする。
「足かせを捨てたい」や「開放されたい」、あるいは「自己主張をしたい」などの言葉で表現されるこの反応の多くは、実は多くの場合、もっと深い依存性を暗に示しているに過ぎない。この依存性は、外的なものではなく、内的なものであるから、決してそこから逃げることはできない。それは、他人の欠点に対して過剰反応をし、コントロールできない周りの人や状況に対して被害者意識を持ってしまう依存性なのである。
もちろん自分の置かれている状況を変えなければならないこともあるだろう。しかし、依存性の問題は、状況とは関係ない個人の成熟の問題なのであり、周りの状況を改善してもその人の未熟さと依然性は根強く残る。
真の自立を達成することにより、周りの状況に左右されるのではなく、逆に周りの状況に作用を及ぼすことができるようになる。これは、状況や他人に対する依存性から開放されることであり、それなりにふさわしい目標だといえるだろう。しかし、自立は有意義な生活の最終的な目標ではない。
自立的な考え方では、相互依存的な現実に対応できない。自立していても、相互依存的に考えたり行動したりするまでも成熟しきれていない人は、独立した生産者として好業績を上げることは会っても、チームのよいメンバーやリーダーになることはできない。それは、夫婦、家族、組織などの難しい現実の中で成功するのに必要不可欠な相互依存のパラダイムを、その日とが、身につけていないからである。
人間は本来、きわめて相互依存的なものである。自立的な考え方で、最大の効果性を達成しようとすることは、まるでテニスをゴルフのクラブでするようなものであり、その現実に見合った道具ではない。
相互依存は、自立よりはるかに成熟した概念である。肉体的・経済的に相互依存している人は、自力で結果を出す能力を持っていることは言うまでもないが、他の人と協力することによって、より優れた結果を達成することができる。また、精神的な相互依存ができていれば、内的に自分自身の価値を強く感じながらも愛の必要性を認め、他の人に愛を与えることも、他の人からの愛を受けることも出きる。そして、知的な相互依存をしていれば、自分の考えだけでなく、他の人の優れたアイデアや思考をも生かすことができる。
相互依存を達成している人は、他の人と深くかつ有意義な関係を気づくことができ、彼らの持つ巨大な能力や可能性といった資源を自由に活用できる。しかしながら、相互依存とは、自立した人にしか選べない領域である。依存している人が相互依存に入ることはどうしてもできない。なぜなら、彼らにはそれだけの人格と自制の力が無いからである。
#!H=2効果性の問題
ほとんどの人は、効果性あるいは成功について考えるとき、黄金の卵のことだけを考えがちである。生産をあげ、目標を達成しさえすれば、それが「効果的」だと思い込む。
しかし、この寓話が示してくれるように、真の効果性というものには二つの側面がある。それは、目標を達成することまたは結果を手に入れること(黄金の卵)と、その卵を手に入れるために使う資源あるいは目標を達成する能力(ガチョウ)、の二つである。
つまり、ガチョウを疎かに、黄金の卵ばかりを追い求める生活用式を取り入れれば、やがては黄金の卵を生み出してくれる資源をなくしてしまうことになる。逆に、ガチョウの世話ばかりして黄金の卵のことをまったく考えなければ、自分自身もガチョウも食べさせる資力を失ってしまうだろう。
効果性は、この二つの側面のバランスにある。それをP/PCバランスと呼んでいる。すなわち、目標達成(Performance)のPと、目標達成能力またはそれを可能にする資源(Performance Capabillity)のPCから名づけられた原則である。
人的資源についても、P/PCバランスは同様に基礎的な原則であると同時に、さらに大切なものとなる。なぜならば人が物的資源と金銭的資源をすべてコントロールしているからである。
例えば、夫婦が、お互いの関係を維持することよりも、相手にして欲しいこと(黄金の卵)ばかりを要求していれば、感受性や思いやりがなくなり、深い人間関係を保つために必要不可欠の小さな親切を疎かにしてしまうことになるだろう。相手を操ろうとし、自分のニーズを主張し、自らの主張を正当化しようとし、相手の誤りを指摘するためのあら捜しを始める。やがて、愛する気持ちや優しさ、あるいは思いやりといった気持ちが薄れ、自然な雰囲気が壊れる。日に日にガチョウの容態が悪化していくことになる。
また、親子関係ではどうだろうか。子どもは幼いとき非常に依存した状態であり、傷つきやすい状態にいる。しかし親は往々にして、この時期、子どもに対する行くせい、コミュニケーション、感情移入といったPC活動を疎かにしがちである。なぜなら、自分の欲しい欲求を手に入れるのに相手の弱さにつけ込み、相手を操ることがとても簡単であるからである。親の方が大きいし、賢いし、正しいから、どうすべきかを指示するだけで済む。必要とあれば、叫び、脅し、強制すればいいと考えてしまう。
逆に甘やかすということもある。子どもにすかれるという黄金の卵を求めて、常に子どもを喜ばそうと、子どもの望むままにさせてしまう。その結果、子どもは大人になってから内的な基準やモラル、ある胃は道徳感を一切持たない、しつけと責任感の無い人間に育ってしまうことになる。
両親の育て方(独裁的あるいは寛容)は、いずれも結局は、黄金の卵を求める発想にすぎない。自分の意志を通したいか好かれたいかのどちらかである。しかし、それをし続けたときのガチョウ-子ども-はどうなるだろうか。年月が経ち、子供は責任感や自制心、あるいは自ら正しい選択をする判断力や大きな目標を達成できる自信といったものを持つようになるだろうか。また、親子関係はどうなるだろうか。「アイデンティティーの危機」ともいわれる十代にさしかかるとき、子供はその時までの経験から自分の経験から自分のことを裁かずに話に耳を傾けてくれる親だと思うだろうか。子供である自分を一人前の人間として扱ってくれ、親は何があっても信頼できるという確信を持つようになっているだろうか。子供と心を通わせ、真のコミュニケーションをし、よい影響を及ぼすほどの強い関係を築いているだろうか。
例えば、娘の部屋をきれいな状態にしておきたいとしよう。それはP、目標達成、黄金の卵である。娘にその掃除をやってほしいとすれば、それはPC、目標達成能力である。娘はガチョウと同じく黄金の卵を生み出してくれる資源なのだ。
PとPCのバランスを維持していれば、娘は気持ちよくいちいち言われなくても掃除を行う。娘は掃除をすると約束しているし、その約束を守る自制心がある。娘は貴重な資源であり、黄金の卵を産むことができるガチョウだということである。
ところが、あなたのパラダイムが目標達成(きれいな部屋)にのみ、集中していれば、部屋の掃除をするように終始小言を言っては娘を悩ますことになるだろう。またいうことを聞かないとなると脅迫や叫び声をあげるといったものにエスカレートし、その結果、黄金の卵を手に入れたいあまりに、ガチョウの健康と育成を台無しにしてしまうのだ。
#!H=2組織の目標達成能力
人の手はお金で買うことができるが、心を買うことはできない。熱意と忠誠心は人の心の中のものである。背中は変えても頭の中を買うことはできない。想像力、創意工夫、改善の精神は頭の中に宿るのだ。
組織のPCを育成するためには、従業員を顧客と同様に扱う必要がある。激しい環境変化に対応しなければならない現代の組織にとっては、従業員が率先力を発揮し、熱意と知恵を自発的に生かしてもらう以外に成功する方法はないのだ。
効果性はそのバランスにある。Pに集中しすぎると健康を害し、機械を故障させ、企業を破産寸前に追い込み、人間関係を破綻に導く。その一方、PCに集中しすぎることは、まるで毎日3、4時間ジョギングをするようなものである。寿命が10年延びると誇るが、その十年間をすべてジョギングで過ごしていることに気がついていない。あるいは永遠に大学に通い続け、何の価値も生み出さず、他の人の黄金の卵で生活する学生もたまに見かける。これらを効果的といえるだろうか。
P/PCバランス(黄金の卵とガチョウの健康のバランス、または目標達成と目標達成能力のバランス)を維持するには難しい判断が要求される。しかし、それこそが効果性の本質なのだ。それは短期と長期のバランスをとることであり、よい成績をとる欲求と真の教育を受ける必要性のバランスをとることであり、きれいに片づけられた部屋が欲しい気持ちといわれなくても掃除をする子供との関係のバランスをとることである。
P/PCバランスは効果性の中心的な概念であり、人生のすべての側面で実証されるものである。この原則に従うか、あるいはそれに反発するかは自分で選べるが、どちらにしても原則が必ず作用する。いわゆる灯台なのだ。「7つの習慣」はこの効果性の定義とパラダイムに基づいているものである。
変化の扉を開く
最終的には、マリリン・ファーガソンが述べたとおり、「だれも説得によって人を変えることはできない。すべての人は固くガードされた心の変化の扉を持っており、その扉は中からしか開けられない。説得や感情に訴えることによって他人の扉を外から開くことはできない」のである。
第二部 私的成功
#!H=2第一の習慣 主体性を発揮する。
#!H=2自己責任の原則
問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である。
自分自身が自分のことをどうみているか、そして他人をどう見ているかを理解しなければ、他人が自分のことをどう見ているか、あるいは世界をそう見ているかを理解することはできない。単にそれは無意識に自らのパラダイムを通して、彼らの行動を解釈し、自分は客観的だと思い込んでいるに過ぎない。
こうした思い込みは、私たちの可能性を大きく制限し、他人との深い人間関係を築く能力を低減させるものである。しかし、私たちこの自覚という人間独自の能力を活かし、自らのパラダイムを見つめることができるし、そしてそれが、現実や原則に基づいているのか、あるいは環境や条件付けによってできた思い込みだけなのかを知ることができるのである。
#!H=2社会通念というゆがんだ鏡
しかしながら現在、人はそのように決定付けられているとする三つのパラダイム(三種類の決定論)が広く浸透しており、これらは個別に、あるいは組み合わせて人間の性質や行動を説明するために使われている。
一つは遺伝子的決定論である。その基本的主張は、「おじいさんとおばあさんから受け継いだ血のせいだ」ということである。短気な家系であり、それが自分の遺伝子に組込まれている。だから自分は短気だ。これはいく世代にもわたっており、受け継がれた性質で、そういう気質だということである。
二つめは、心理学的決定論である。その基本的主張は、「両親の育て方のせいだ」ということである。育ちや幼児体験が正確や人格を作り出しているというものだ。傷つきやすく、繊細で、親の影響を受けやすい幼児期に与えられた脚本付けを心の底に覚えているので、間違いを犯すと、とても恥ずかしく感じる。だから、大勢の前でしゃべるのは苦手だ。また、親の期待にこたえられなかったときの罰・拒絶・他人との比較をどこかで覚えているから、それが自分の行動を決定付けているということである。
三つめは、環境的決定論である。その基本的な主張は、「自分の上司、妻、子供、経済、国政の方針のせいだ」というものだ。自分を取り巻く環境の中の何かが、あるいは誰かが、今の自分の状況を作り出す責任を持っているとするものである。
これらの理論は、パブロフの犬の実験に起因する刺激と反応のモデルに基づいている。その理論を簡単に言えば、私たちは、ある特定の刺激に対して特定の反応をするように条件付けられるということである。
しかし、これらの決定論的なパラダイムは、どれだけ正確に機能的に人間の本質を描いているだろうか。それらは単なる自己達成予言になっていないだろうか。つまり、私たちは、そうだと信じているから、そうなってしまっているということはないだろうか。決定論というパラダイムは人間の本当の可能性を支える正しい原則と一致しているだろうか。
刺激、反応、そして選択の自由
‥‥(中略)‥‥
つまり、人間は刺激と反応の間に選択の自由を持っているということである。この選択の自由の中にこそ、人間の人間たる四つの独特な性質(自覚・想像力・両親・自由意志)がある。
‥‥(中略)‥‥
決定論のパラダイムは、主にネズミ、ハト、サル、イヌといった動物と、ノイローゼ患者や精神異常者の研究に基づいて打ち出されたものである。容易に測定し予測できるという条件を満たす意味で、研究しやすい対象である。しかし、人類の歴史に照らし合わせ、そして自分自身の自覚で見つめれば、この研究によって出来上がったパラダイムをそれに基づいた解釈は、全く現実に合わないものだということが分かるだろう。
私たちが持つこの人間独特の性質によって、動物の世界よりはるかに高い立場へ引き上げられる。これらの特質を育成し活用する限りにおいて、私たちは人間としての独特な可能性を満たすことができる。刺激と反応の間に人間だけに与えられたすばらしい力が存在している。それが反応を選択する能力なのである。
#!H=2人生の責任を引き受ける
この人間の独特な性質――選択の自由――を発見することにより、フランクルは正確な自己パラダイムを描き、効果的な人生を営むもっとも基本的な習慣を身につけ始めた。それは、主体性を発揮する習慣である。
主体性とはよく聞く言葉だが、定義があいまいになっている場合が多い。主体性を持つよういうことは率先力を発揮するだけでなく、人間として自分の人生に対する責任を取るということである。私たちの行動は周りの状況からではなく、私たち自信の選択によって決まるのだ。私たちは感情を価値観に従わせることができる。そして物事を成し遂げる率先力を発揮する責任を負っているのだ。
責任は英語でレスポンシビリティー(Responsibility)という。この言葉の語源をみるとレスポンス(Responce:反応)とアビリティー(Ability:能力)という二つの言葉からなっている。主体性のある人はそのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力」を発揮している。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起こる一時的な感情の結果ではない。
人間の本来の姿は主体的なものである。だから、意識的な選択にせよ、無意識的な選択にせよ、もし自分の人生が今までの条件付けや周りの状況にコントロールされているとすれば、それはそうしたものに主導権を譲ったからに他ならない。
自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。例えば、反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受ける。天気がよければ、気分もよい。しかし、天気が悪ければ、気分も悪くなり、遂行能力も低下する。主体的な人は自分の天気を持ち合わせている。雨が降ろうが太陽が照ろうが関係ない。彼らの行動は価値観に導かれており、質の高い仕事をする価値観を持っていれば、天気がどうであろうと関係ない。
反応的な人は社会的な環境(社会の天気)にも大きく影響される。人が親切にしてくれると気分がいい。そうでないときは、不機嫌になったり落ち込んだりする。反応的な人の精神状態は他人の行動や言葉に左右され、振り回されることになる。
「自分の価値観に基づき行動する」ことは、主体的な人のもっとも基本的な性質といえる。反応的な人は「その時折の感情、状況、条件付け、環境などに左右される」が、主体的な人は深く考え、選択し、内面化した価値観に基づいて自らを支配するのだ。
だからと言って、主体的な人が、天気などの物的、社会的、心理的な刺激に影響されないかと言うと、そうではない。しかし、それに対する彼らの反応は、価値観に基づいた選択なのである。
エリナー・ルーズベルトは次のように表現している。
「あなたの許可なくして、だれもあなたを傷つける事はできない。」
また、ガンジーの言葉によれば、
「自分で投げ捨てさえしなければ、だれも私たちの自尊心を奪うことはできない」
本当の意味では、自分のみに起こる出来事によって傷つけられるのではない。自分がその状況を容認すると言う選択によって、傷を受けるのだ。
これが精神的に受け入れにくい概念だと言うことは、百も承知している。特に何年にもわたって環境や他人の行動を、自分の不幸の理由にしてきた人にとっては、そうだろう。しかし、心底から正直に「今の状況はこれまで私が行ってきた選択の結果だ」と言えるようになるまで、「他の道を選ぶ」と言うことはできない。
‥‥(中略)‥‥
自分の身に何が起こるかではなく、それにどう反応するかが重要なのだ。もちろん外的な環境要因によって、肉体的あるいは経済的に害を受けて悲しむこともあるだろう。しかし、私たちの人格、基本的なアイデンティティーそのものまでが、それに害される必要はない。かえって人生のつらく、厳しい経験によってこそ人格は形成され、内的な力が育成される。それによって難しい状況に対応する能力が高まり、他の人にも模範を示し感動と励ましを与えることができるようになるのだ。
‥‥(中略)‥‥
ビクター・フランクルによれば、人生には三つの中心的価値があると言う。一つは「経験」であり、自分に何が起こるかである。二つめは「創造」であり、自分で作り出すものである。そして三つめは「態度」であり、末期の病気と言った大きな困難に直面したときの反応の仕方に代表されるものである。彼によると、この三つの価値のうちもっとも大切なのは、「態度」である。私自身の経験からも、フランクルの考えは正しいと思う。重要なのは、人生の経験にどう反応するかということであり、どういうパラダイムを持つかということである。
頭と率先力を使いなさい。
人間本来の姿は、周りの状況に作用を及ぼすことである。これは、自分の置かれた状況に対して自分の反応を選ぶことが出来るというだけではなく、自分自身を取り巻く状況そのものを自分で作り出すことができるという意味である。
率先力を発揮することは、押し付けがましくなるとか、わがままであるとか、またはしつこくなるとか言うことではない。自分から進んで状況を改善する行動を起こすようにすることである。
‥‥(中略)‥‥
人にきちんと責任を取らせるということは、その人を見下すことにはならない。逆にその人の主体性を肯定することになる。主体性は人間の本質の一部であり、それは発揮されていなくてもその人の中に必ず存在するものである。他の人の主体性を認め、それを尊重するとき、その人の本来の姿を正確に映し出す社会の鏡になることができる。
もちろん相手の姓熟度を考慮する必要がある。例えば、深い依存状態にいる人に大きな創造的協力を期待することはできない。しかし、その人の成長のレベルがどうあれ、少なくともその人の主体性を尊重し、その人自らが機会を活かし、自分の問題は自分で解決できるような環境を提供することはできる。
作用するか、作用されるか
率先力を発揮する人としない人との間には、天と地ほどの開きがある。それは25%や50%の差でなく、5,000%以上の効果性の差になる。特にその人が賢く感受性豊かで、周りの人のことを考えてあげられるような人の場合には、そうである。
生活の中でP/PCバランスを作り出すには率先力が必要である。「7つの習慣」を身につけるのにも率先力が必要である。この「主体性を発揮する」という習慣の後に続く残りの六つの習慣を勉強するにつれて、主体性の発揮が鍵であるということがわかるはずである。そのいずれについても、行動を起こす責任はあなたにある。周りが動くのを待っていれば、必ずや周りに左右されることになる。自分で責任を取るかとらないか、どちらの道を選ぶかで、それに伴う結果は異なってくる。そして、それによってあなたの成長やあなたの人生が多大な影響を受け、大きく変わってしまうことになるのだ。
‥‥(中略)‥‥
「冗談じゃないよ。事実を無視しちゃいけない。前向きな考えなんて言うのにも限度がある。現実をしっかり見詰めないとだめだ」
ところが、これこそが、単なる前向きな姿勢やプラス思考と、主体性との違いなのである。私たちはまさに現在の状況と今後予想される厳しい現実を直視していた。同時に、その状況や予測に対して積極的な反応を選択できるという現実も認識していたのである。周りの環境や状況に決定づけられているという考え方こそ、非現実的なものだといえるだろう。
言葉が「自己達成予言」になる
行動や態度はパラダイムから生み出されるものであるから、行動や態度を見詰めれば、その源にあるパラダイムが見えてくる。だから、私たちが普段話す言葉を聞けば、それだけで主体性の度合いが分かる。
反応的な人の言葉は、みずからの責任を否定するものである。
中略
反応的な言葉がなぜ重要な問題なのかというと、それが心理学でいう「自己達成予言」になるからである。つまり、そういう言葉を使う人は、決定付けられているというパラダイムを更に強く持つことになり、その信念を支える根拠を自分で作り出すことになる。ますます被害者意識に陥り、生活のコントロールを失い、自分の人生を自分で作り出す能力をなくしてしまうのだ。そして、自分の状況をすべて外的な要因(他人、環境、星座に至るまで)のせいにするのである。
中略
世界中すべての偉大な文学において、「愛」は動詞として登場する。反応的な人は、愛を単なる気持ちとして捉えがちである。なぜなら、反応的な人は感情や気持ちに支配されているからである。往々にして映画やテレビの脚本は、人に責任はなく、その時折の感情で動くしかないと、私たちに教えている。しかし、映画の脚本と現実とは違う。もし行動が感情に支配されているとするならば、それは私たちが自らの責任を放棄し、そうさせたからに他ならない。
主体的な人にとって、愛は動詞である。愛は具体的な行動である。母親が新しく子供を世に送り出すのと同じように犠牲を払うこと、自分自身をささげることである。愛を勉強したければ、他人のために(特にそれに報いてくれない相手のために)犠牲を払う人たちを見るとよい。子供を持つ親であれば、犠牲を払って育てた子供に対してどれだけ愛を感じるかがよく分かるだろう。愛は行動によって具現化される価値観である。主体的な人は感情を価値観に服従させる人である。愛するという気持ちを失っているとすれば、それを取り返すことができるのだ。
影響の輪と関心の輪
主体性に関する自覚を高めるもう一つの方法は、時間やエネルギーを集中させているところを観察することである。私たちはみなそれぞれ、多くの関心事を持っている。健康、家族、仕事の問題、経済、世界の平和など。関心の輪を描くことで、関心を持っている事柄と関心を持っていない事柄とを分けることができる。
そして、関心の輪の中に入っている事柄を見つめれば、実質的にコントロールできないものと、コントロールできるもの、あるいは大きく影響できるものがあるということがすぐに分かる。後者の範囲はもっと小さい輪、つまり影響の輪を描くことをもって示すことができる。
自分が時間やエネルギーの大部分を、この二つの輪のどちらに集中させているかを考えることにより、主体性の度合いをよく知ることができる。
主体的な人は、努力と時間を影響の輪に集中させ、みずからが影響できる事柄に働きかける。彼らの使うエネルギーは積極的なものであり、その結果として、影響の輪が大きく広がることになる。
一方、反応的な人は関心の輪に集中している。他人の欠点、周りの環境、自分のコントロールの及ばない状況などに集中する。これらの物に集中すると、人のせいにする態度や反応的な言葉、あるいは被害者意識を作り出すことになる。反応的な人は消極的なエネルギーを発生させ、影響を及ぼせる事柄をおろそかにするので、影響の輪は次第に小さくなる。
関心の輪に集中する限りは、その中に入っている事柄に支配されてしまう。関心の輪に集中する人は、問題をよい方向に向かせるために必要な主体性と率先力を発揮していないのである。
この本の冒頭で息子の深刻な問題について述べた。そこでは、私と妻は、息子の欠点、周りの目や他人の言動をとても気にしていた。
しかし、それらの事柄はすべて関心の輪の中にあった。そうしたことに努力を集中させる限りは、まったく埒があかなかった。関心の輪に集中することで、自分の無力感と物足りなさをさらに痛烈に感じて、息子の依存性を強めるだけだった。
影響の輪に集中し、自分のパラダイムを帰ることに働きかけるようになって、初めて積極的なエネルギーを作り出すことができた。そして、自分たちを変えることによって、やがて、息子にも影響を及ぼせるようになった。状況について心配するより自分自身に働きかけることによって、初めて状況そのものに影響を及ぼすことができたのである。
‥‥(中略)‥‥
#!H=2すべての問題は影響できる
私たちの直面する問題には、三種類ある。それは、
l 直接的にコントロールできる問題(自分の行動と関係している問題)
l 間接的にコントロールできる、あるいは影響できる問題(他人の行動と関係している問題)
l まったくコントロールできない問題(だれも影響できない問題、過去の出来事など)
である。主体的なアプローチをとることによって、この三種類の問題を解決する第一歩のすべてが、自分の影響の輪の中に入ることになる。
直接コントロールできる問題は、習慣を変えることによって解決される。これらの問題の解決は明らかに自分の影響の輪の中に入っている。したがって、その解決は、第一、第二、第三の習慣の私的成功に関わるものである。
間接的にコントロールできる問題は、影響を及ぼす方法を変えることによって解決される。これらは、第四、第五、第六の公的成功に関わるものである。私は個人的に三十以上の影響を及ぼす方法を見出しているが、それは感情移入から衝突まで、模範を示すことから説得まで多岐にわたっている。ほとんどの人は、三つか四つくらいしか影響を及ぼす方法を持ち合わせていない。たいていの場合は、自分の理論を展開することで始まり、それがうまくいかないとなると、「喧嘩」か「逃避」のどちらかになる。相手の行動を正すために、今までの非効果的な方法に頼らずに新たな影響を及ぼす方法を学ぶことが出来るということは、何と開放的な思いだろう。
まったくコントロールできない問題については、自分の態度を変える必要がある。気に入らなくても変えられない状況に対して、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれを受け入れるのである。こうした問題にコントロールされる必要はない。アルコール中毒者匿名会という断酒団体があるが、その座右の銘はとても参考になる。
「主よ、変えられるべき変えられることを変える勇気を、変えられないことを受入れる平和を、そしてその区別をつける知恵を与えたまえ」
直接的、間接的、あるいはまったくコントロールできない問題のいずれにせよ、その解決の第一歩は私たちの手に委ねられている。習慣を変えるのも、影響を及ぼす方法を変えるのも、まったくコントロールできない問題に対する見方や態度を変えるのも、すべて私たちの影響の輪の中に入っているのだ。
#!H=2影響の輪を広げる
自分の反応を選択することで、自分の置かれた状況に多大な影響を及ぼすことができるということは、心強い事実である。それは化学式の一部分を変えれば、全体の結果がまるで変わってしまうのと同じである。
‥‥(中略)‥‥
主体性という言葉を聞くと、それは押し付けがましく、強引で、わがままで、無神経になることだと考える人もいる。しかし、それはまったく違う。主体的になるということは押し付けがましくなることではなく、賢くなることなのだ。価値観に基づいて行動し、現実を正しく認識し、その中で他人の気持ちや周りの状況を理解することなのである。
例えば、インドのガンジーを考えてみるとよいだろう。インドがイギリスの支配下にあったころ、インドの国会議員たちは関心の輪に集中して、イギリスを批判する多くの宣言文を発表していた。しかし、ガンジーはそうした行動に加わろうとしなかった。そのために、国会議員たちはガンジーのことも批判し始めた。その時、ガンジーはどこにいたかというと、田畑の中を歩きまわり、静かに、ゆっくりと、だれに気づかれないうちに、農民に対する自分の影響の輪を広げていたのだった。ガンジーが全国を歩くにつれて草の根的に彼を指示し、信頼し、尊敬する運動がいたるところで湧き起こった。彼は何ら政治的な立場も地位もなかったにもかかわらず、哀れみ、勇気、良心に訴える説得や断食で、やがてはイギリスを跪かせ、そしてその大きく拡大した影響の輪により、三億人のインド人をイギリスの政治的支配から開放したのである。
#!H=2「持つ」か「なる」か
どちらの輪に集中しているかを考えるもう一つの方法は、「持つ」ことと「なる」ことを区別することである。関心の輪は「持つ」ことに満ちている。
「家さえ持てば幸せに慣れる」「もっと親切な上司を持っていたら…」「もっと忍耐強い夫を持っていたら…」「もっと素直な子供を持っていたら…」「一流大学の卒業証書さえ持っていたら…」「もっと自由な時間を持っていたら…」など。
これに対して、影響の輪は「なる」ことに満ちている。
「私はもっと忍耐強くなる」
「私はもっと賢くなる」
「もっと優しくなれる」
つまり、人格主義の考え方である。
問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である。
それは、自分の外にある事柄に支配されることを容認することであり、変化に対するパラダイムが、アウトサイド・イン(外から内へ)になることである。つまり、私たちが変わることができる以前に、あるいは状況を改善することができる前に、外にある事柄が変わらなければ成らないという考え方である。
主体的なアプローチは、インサイド・アウト(内から外へ)で変わることである。自分のあり方(自分の内にあるもの)を変えることにより、自分の外にあるものをプラス方向に転換させることができる。つまり、私はもっと勤勉になれる、もっと創造的になれる、もっと協調性のある人になれるという考え方である。
‥‥(中略)‥‥
この考え方が、多くの人にとって大きなパラダイム変換だということを、私は十分に承知している。自分の悩みを他人の行動、条件付け、あるいは周りの状況のせいにするのはとても簡単である。しかし、私たちは自分の行動の責任を取ることができる。渡した荷には、反応を選択する能力(Responsibility)がある。自分の人生をコントロールし、自分のあり方や人格そのものに集中することにより、自分の周りの状況に大きく作用を及ぼすことができるのだ。
例えば、結婚生活に問題を抱えているとすれば、妻の欠点を延々と指摘することに何の意味があるだろうか。それは単に自分自身を責任がない無力な被害者に仕立てるだけであり、自らの行動する力を放棄しているに過ぎない。やがては、妻に影響を及ぼす力もなくなるだろう。叱責し、批判し、咎めつづければ、彼女はあなたの思いやりの無さを理由に自分の悪い行動を正当化できると感じるだろう。あなたの批判は、改めさせようとしている妻の行動よりも有害なものなのだ。その状況によい影響を及ぼす力は、見る見る消え失せてしまうだろう。
本当にその状況を改善したいのであれば、コントロールできる唯一のもの――自分自身――に働きかけることである。妻を正そうとすることを止めて、みずからの欠点を取り除くことに働きかけることである。すばらしい夫になることに集中し、無条件に妻を愛し、支えるようにすることである。願わくば、妻もあなたの主体的な模範の力を感じ取って同じようにしてほしいと思うだろう。しかし、彼女がそうしようとそうしまいと、状況を改善する最もよい方法は、みずからのあり方に働きかけ続けることなのだ。
影響の輪の中に集中する方法はいくらでもある。よりよい聞き手になること、もっと愛を示す伴侶になること、もっと熱心な生徒になること、もっと協調性のある従業員になることなど。時と場合によっては、もっとも主体性を発揮する方法は、ただ単に心穏やかにすべてを受け入れ、幸福になることである。そして、心から微笑んですごすのだ。幸も不幸もいずれも主体的な選択の結果に過ぎない。天候のように絶対に影響の輪の入ってこないものも、確かにある。しかし、主体的な人として、自分の天気を待ち合わせることはできる。幸せになると決めて、コントロールできない要因を受入れて、コントロールできるものに努力を集中させることができる。
#!H=2成功は失敗のかなたにある
人生の焦点をすべて影響の輪に絞る前に、関心の輪の中のもう二つの事柄についてさらに考えるべきであろう。それは、「結果」と「間違い」である。
行動を選択する自由はあるものの、その結果を選択する自由はない。それは関心の輪に入っているからである。例えば、電車の前に飛び込むことを選択することはできるが、電車にはねられると、どういう結果になるかは自分で決めることはできない。
それと同じように、商取引において不正を行うことを選ぶことはできるだろう。この場合、発覚するかどうかによって社会的な結果は異なるが、この行動が、自分の人格に及ぼす自然の結果は既に決まっている。
私たちの行動の結果は原則に支配されている。原則に沿っていきることがよい結果をもたらし、原則に違反するとき望ましくない結果を受けることになる。どういう状況に置かれても自分の反応を選択することができるが、そうすることでそれに伴う結果を同時に選択することなる。
「棒の片側をつかむときは、向こう側も持ち上げている」のだ。
だれもが人生の中で、後で誤りだったと思うような棒を拾ったことがあるはずだ。その選択は、経験したくなかった結果をもたらしたに違いない。やり直すことができるならば、違う選択をするだろう。こういう選択を「間違い」という。
過去の出来事に後悔している人に必要なのは、そうした間違いはすべて関心の輪に入っているということに気がつくことである。それを呼び戻したり、取り消したり、その結果をコントロールしたりすることはできない。
‥‥(中略)‥‥
間違いを認めず、行動も修正せず、そこから何も学ぼうとしないということは、まったく異なった次元の間違いになる。こうすることで人は自己を欺き、正当化を繰り返し、嘘を重ねることになる。この二つ目の間違い、つまり自己背信は、最初の間違いに異常な力を与えることになり、必要以上の意味を持たせ、自分自身にさらに深い傷を負わせることになる。
本当の意味からすると、人が深い傷を受けるのは、他人の行動によるものではないし、ましてや自分の間違いによるものでもない。それにどう反応するかによって傷を受けるのだ。
#!H=2生活の主導権を取り戻す
私たちの影響の輪のもっとも中心にあるものは約束をし、それを守る力である。自分自身や人に対してする約束とそれに対する誠実さが、私たちの主体性の本質であり、そのもっとも明確な表現だろう。
それは人間の成長の基礎である。自覚と良心という人間の持つ独特の性質を活用することにより、私たちは自分自身の弱点、改善すべき点、伸ばすべき才能、または生活の中で変更すべき、あるいは取り除くべき点を意識することができる。これを踏まえて改善を図るためには、想像力と自由意志を活用し、自分自身に対して約束を作り、目標を設定し、それを守ることが必要になる。これにより自分の人格の強さが作り上げられるのである。その人格の強さこそが、質の高い生活を可能にするのだ。
ここですぐに自分の生活の主導権を取り戻す方法を二つ提案したい。一つは、約束をし、それを守ることである。もう一つは目標を設定し、それを達成するために働くことである。どんなに小さいことでも、自他に対する約束を守ることによって内的な誠実さが育成され、自制心と自分の人生に対する責任を引き受ける勇気と力が湧いてくる。自他に対して約束をし、それを守ることで少しずつ私たちの誠実さと自尊心が、その折々の感情よりも大きな意味と力を持つようになる。
約束をし、それを守るということは、効果性の習慣を身につける本質である。知識・スキル・やる気は、すべて私たちの影響の輪の中にある。この三つのバランスを改善させるために、そのいずれについても伸ばすように努力することができる。その結果、人生の効果性を高める方向に向かったバランス良く進むと同時に、人格の高さを作り出すことができるのである。
#!H=2三十日間のテスト
自分自身の主体性を認識し、育てるために、ビクターフランクルのように強制収容所と言った劇的な体験をする必要はない。人生の大きなチャレンジに主体的に対応する力が育成されるのは、日々の平凡な出来事にあるのだ。どういうふうに約束をしそれを守るか、交通渋滞に対してどう対応するか。怒っているいる顧客やいわれたことをしなかった子供にどう反応するか、どういうふうに問題を見るか、どこに自分のエネルギーを集中するか、どういう言葉を使うかといったことが大切なのである。
私は皆さんに、この主体性の原則を30日間試すようにお勧めしたい。実際に行ってみて、その結果を見るだけでよい。30日間、影響の輪の中に集中してみてほしい。小さな約束を作り、それを守る。砂漠よりも光を与える人になり、批判者よりも模範になる。問題を作り出す人ではなく、問題の解決に貢献する人になる。結婚生活において、家庭において、仕事においてやってみてほしい。他人の弱点について争うことをやめてみる。自分の弱点を弁護することもやめてみる。間違いを犯したときに、素直にそれを認め、修正し、それからすぐ学ぶようにする。他人のせいにしたり、彼らを批判したりする無駄なエネルギーを使わないようにする。コントロールできることに働きかけてほしい。自分自身を変えるようにし、自分のあり方に集中してみてほしい。
他人の弱点や欠点を批判する目ではなく、慈しみ深い目で見てほしい。彼らが何をしているか、何を怠っているかが問題ではなく、それに対してあなたがどういう反応を選択するか、あなたは何をすべきかが問題なのだ。問題は自分の「外」にあると考え始めたら、その考えをやめてほしい。その考えこそが問題なのだ。
日々自分の自由の芽を伸ばしつづける人は、徐々にではあるが自らの自由を拡大させることになる。そうしなければ人の自由は枯れていき、やがては、自分自身の人生を生きているというより、「単に生存しているだけ」という感じになるだろう。両親、同僚、社会全体が押し付けた脚本に沿って行動しているに過ぎない。
効果的になるか、幸せになるか、そしてほとんどの場合において、どういう状況に置かれるかは自分自身の責任なのだ。
サミュエル・ジョンソンは次のように述べている。
「満足の泉はその人の心に湧き出るものでなければならない。自分自身の人格以外の変えることで幸福を求める愚かな人は、実を結ばない労力に人生を浪費し、避けようとしている悲しみを倍増させるに違いない」
自分は責任のある(反応を選択できる)人間だということを悟ることが、効果性の基本であり、残りのすべての習慣の基礎となる。
#!H=2第二の習慣 目的を持って始める
#!H=2自己リーダーシップの原則
もし、はしごをかけまちがえていれば、一段ずつ上るごとに間違った場所に早くたどり着くだけである。
目的を持って始めるということは、目的地をはっきりさせてから旅立つことである。目的地を知ることで、現在地もさらによく分かるようになるし、いつも正しい方向に向かって歩み続ける事ができるようになる。
「活動の罠」――日々の生活の忙しさに追われ、やっていることそのものに意味があるかどうかを考えないありさま――の中に自分自身を見失い、成功のはしごをのぼりつめて頂上に達したとき、初めてそのはしごはかけちがいだったと気がつく人がなんと多いことだろう。非常に忙しい毎日を送りながらも、その活動自体が、実は自分の最終的な目的とは何ら関係がないという可能性が大いにあるのだ。
人はまったく意味のない勝利を手にすることがよくある。成功だと思っていることを達成したにもかかわらず、それよりもはるかに大事なことを犠牲にしてしまったことを、突然に思い知らされる。どんな職業(会社員、医者、学者、俳優、政治家、スポーツ選手、大工など)においても、収入、職業能力、あるいは地位を高めようと必死にがんばり、その成功意欲の強さのあまり、本来もっとも大事な事柄を見失い、とりかえしのつかない過ちを犯してしまう人が大勢いる。自分自身に何が本当に大切なのかがわかっていて、そのイメージを常に頭の中に植えつけ、毎日そのもっとも大切な事柄を優先する形で自己管理をすれば、人生は何と大きく変わってくるだろう。もし、はしごを掛違えていれば、一段ずつ上るごとに間違った場所に早くたどり着くだけである。忙しいかもしれない、能率良く働くかもしれない。しかし目的を持った上で始めない限り、効果的ではないのだ。
‥‥(中略)‥‥
すべての物は二度作られる
‥‥(中略)‥‥
意図するか放任するか
‥‥(中略)‥‥
#!H=2リーダーシップとマネジメント:二つの創造
第二の習慣は、自己リーダーシップの諸原則に基づいている。つまりリーダーシップは第一の創造である。リーダシップはマネジメントとは違う。マネジメントは第二の創造に関わるものである。マネジメントについては第三の習慣の章で述べることにするが、まずはリーダーシップについて考えなければならない。
マネジメントは手段に集中しており、どうすれば目標を達成できるという質問に答えようとするものである。一方、リーダシップは望む結果を定義しており、何を達成したいのかという質問に答えようとするものである。ピータ・ドラッカーや、ウォーレン・ベニスの言葉を借りれば、「マネジメントは物事を正しく行うことであり、リーダーシップは正しいことをすることである。」ということだ。マネジメントは成功のはしごを効率よく昇ることであり、リーダシップは掛違っていないかどうかを判断することである。
‥‥(中略)‥‥
現在必要とされているのは、道路地図よりも、はっきりしたビジョンあるいは目的地、そしてコンパス(方向性を示してくれる原則)なのである。なぜなら、前方の地勢が激しく変わっているため、どう進めばいいのかわからなくなることが多いからだ。新しい問題にぶつかったとき、その場で素早く判断しなければならない。その時正しい方向性を示してくれるのは、自分の内的なコンパスだけである。
私たちの効果性、場合によっては生存そのものは、努力の度合いというより、その努力が正しいジャングルの中にきちんと注ぎ込まれているかどうかにかかっている。現在、産業界が直面している大きな変革を考えれば、先にリーダーシップ、後にマネジメントというアプローチがますます必要不可欠なものになっている。
‥‥(中略)‥‥
効果的なリーダーシップのないマネジメントは、ある人物の言葉を借りれば、「タイタニック号のデッキで椅子を片づけるようなもの」である。いかなるマネジメントの成功も、リーダーシップの失敗を補うことはできない。しかし、ほとんどの場合、私たちはマネジメントのパラダイムにとらわれすぎて、リーダーシップを疎かにしがちである。
‥‥(中略)‥‥
子育て中の親たちも、このマネジメントのパラダイムに陥ってしまうことが多い。コントロールや能率、ルールばかりを考えて、家族の方向性や目的意識の共有化、あるいは家庭の文化や雰囲気作りが二の次になってしまいがちである。
個々人の生活に置けるリーダーシップの欠如は、もっと深刻な問題である。多くの人々は、自分自身の価値観や人生の目的を明確にすることなく、能率的な自己管理や目標達成ばかり気にして生活するのである。
#!H=2人生の新しい脚本
前にも述べたように、主体性は「自覚」という人間独特の性質に基づいている。しかし、主体性を向上させ、自己リーダーシップを可能にする人間独特の性質が、他に二つある。それは、「想像力」と「良心」である。
「想像力」により、自分の中に秘められた潜在的な可能性を発見し、将来について考えることができる。また、「良心」によって、普遍の原則や自然の法則を理解し、自分自身の独自の才能や貢献する能力を意識することができる。そして、それを開発するために必要な個人的なガイドラインを打ち出すことができる。「自覚」とあわせて、この三つの性質が私たちに自らの脚本を書き直す力を与えてくれるのだ。
私たちは他人から与えられた多くの脚本を頭の中にもって生活している。そのため、自分自身の脚本を書き直す、あるいはパラダイム転換を図るプロセスが必要になる場合がある。自分の持っている非効果的な脚本や不完全なパラダイムに気がつけば、主体的にその脚本を書き直すことができる。
‥‥(中略)‥‥
自分自身の内面を見つめ、自覚を育成するにつれて、多くの人々は非効果的な脚本を持っている事に気がつく。これらの脚本が根強い習慣の源となる。多くの場合、私たちの真の価値観とまったく合わないものになっている事もある。しかし、第二の習慣は、そうした脚本を持ちつづける必要はないという事を教えてくれる。私たちは想像力を生かし、より効果的で、自分のもっとも深い価値観に合った、原則に沿った脚本を作り出す力と責任を持っているのだ。
‥‥(中略)‥‥
ここで最初に想像した葬儀の場面に立ち返ってみよう。子供が弔辞を述べようとしている。その人生経験がその場しのぎの応急対処置的な争いの積み重ねでなく、愛ある教え、訓練、躾の結果であってほしいと思う。私の事を思い出すとき、その成長の喜びと悲しみをともに分かち合った愛情深い父親だったと覚えておいてほしい。子供が抱えている問題や心配事を打ち明けてくれたとき、よい聞き手となり、愛を示し、子供を助けた父親だったと思っていてほしい。完全ではないが、精一杯がんばった父親だったというふうに、覚えていてほしい。そして何よりも、世界中のだれよりも子供を愛していたという事を記憶にとどめておいていてほしい。
なぜそう望むかというと、私は心の奥底から深く子供を愛し、大切に思っており、子供を助けたいと思っているからだ。そして、彼らの父親としての自分の役割を大切に思っているからだ。
しかし、常日頃その価値観を意識しているとは限らない。どうでもいい些細な事柄に目が眩む事もある。また、生活の差し迫った問題や、子供の表面的な悪い行動に気を取られすぎて、本当に重要な事を見失ってしまう事もあるだろう。やがてそのために私は反応的になり、日ごろの子供に接する接し方も、彼らに対する私の本当の気持ちを反映しないものとなってくるのだ。
ところが、私には自覚と想像力と良心があるので、自分の奥底の価値観を見つめる事ができる。そして、自分の実行している脚本は、その価値観に基づいたものではなく、意識的に選択したものでもなく、つまり第一の創造を周りの状況や他の人に委ねた結果だという事に気がつく事ができる。私は変わる事ができる。記憶に基づいてではなく、想像力に基づいて生活する事ができる。自分自身を制限する過去ではなく、自分自身に無限の可能性を与えてくれる将来に生きる事ができる。私たちは、自分で第一の創造を行う人になれるのだ。
目的を持って始めるという事は、生活の中でさまざまな役割を果たすときに、明確な価値観に基づいて行動する事である。自分の第一の創造に対する責任を取る事である。また自分の行動や態度を左右するパラダイムが、自分のもっとも深い価値観や正しい原則に合ったものになるように自分自身の脚本を書き直すという事である。
それを踏まえた上で、毎日その価値観をしっかりと頭において一日を始めるのだ。そうすれば、さまざまな出来事や試練に出会ったとき、その価値観に基づき反応を選択する事ができるようになる。誠実・廉潔に行動する事ができるようになる。その時折々の感情や状況に反応する必要はなくなり、真の意味で主体的な人になる事ができる。それは価値観が明確になっているからである。
#!H=2個人的なミッション・ステートメント
目的を持って始める最も簡単で大きな効果をもたらす方法の一つは、ミッション・ステートメント(個人的な憲法、または信条)を書く事である。その中で自分はどうなりたいのか、何をしたいのか、そして自分の行動の基礎となる価値観や原則を明らかにする。
‥‥(中略)‥‥
個人のミッション・ステートメントは、個人の憲法といえる。国の憲法というのは、他のあらゆる法律を評価する基準となり、国民の権利と責任を定義するものである。また、さまざまな国難を乗り越える土台となり、他のすべての行動を評価し方向づけるものである。国の憲法が正しい原則に基づいていれば、それは長年にわたり、ほとんど改正する必要はない。なぜなら、不変の原則に基づいた憲法は、激しい変動を乗り越える力をその社会に与えてくれるからである。
同じように個人のミッション・ステートメントが正しい原則に基づいていれば、個人にも揺るぎ無い方向性が与えられる。それは個人の憲法となり、人生の重要な決断を行う基礎となる。激しく変わる環境の中にあって、個人に不変の安定性と力を与えてくれるのである。
人は変らざる中心がなければ、変化に耐えることができない。変化に対応する能力を高める鍵は、自分はだれなのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである。
だからこそ、ミッション・ステートメントを持つことにより、周りの変化に対応する能力が著しく高まることになる。そして、偏見や既成概念などは不要になり、人をむやみに分類したり、また知ったかぶりをする必要もなくなる。
私たちの直面する環境は常に変化しており、そのペースには目をみはるものがある。その変化の早さに、多くの人が圧倒されてしまい、変化に耐えられず、人生の辛さに挫折してしまうのだ。反応的になり、すべてを諦め、自分の身に起こる出来事が、よい方向に変ってくれることを祈るしかないと考える。
‥‥(中略)‥‥
ミッションを持っていれば、主体性を発揮する土台ができているといえる。そして自分の人生に芳香を与えてくれるビジョンと価値観を持つことになり、長期的または短期的な目標を設定する基本的な方向づけが出来上がる。正しい原則に基づいた憲法を持つ人は確固たる中心を持ち、すべての決断をそれに照らし合わせて、自分の時間、才能、エネルギーを効果的に使うことができるのだ。
#!H=2中心から変る
個人的なミッション・ステートメントを書くには自分の影響の輪の中心から始めなければならない。なぜなら、影響の輪の中心には、自分のもっとも基本的なパラダイム、世界を見るためのレンズが入っているからである。
自分のビジョンと価値観を考えることは、影響の輪の中心に働きかけることである。そのために「自覚」を使い、自分の持っているパラダイムを見つめ、それが正しい原則に合っているかどうかを確認することが大切である。また、自分の「良心」をコンパスとして使いながら、独自の才能や貢献の可能性を発見する。そして「想像力」と使い、自分の望む最終的な姿を描き、自分の努力に方向性と目的を与え、自分の憲法を明文化できるのである。
その目的の達成に向けて努力を集中することにより、最大の成果を手に入れることができる。それは影響の輪の中心に働くことにより、その影響の輪が拡大するからである。だからこそ、個人的なミッション・ステートメントを書くことが波及効果の大きいPCの活動であり、生活のあらゆる側面に多大なインパクトを与えるものである。
自分の生活の中心に置くものがなんであれ、それは自分の安定性、方向性、知恵、ならびに力の根元になる。
l 「安定性」とは、自己価値、アイデンティティー、精神的な基礎、自尊心、または個人的な力のことである。
l 「方向性」は、人生における方向の根元であり、生活の中の意思決定、判断、決断などの基準である。
l 「知恵」は、生活におけるバランスの感覚であり、原則に対する理解の度合いである。知恵には判断力、洞察力、理解などが含まれる。そして知恵を持つことに世生活に一体感がもたらせるのである。
l 「力」は、行動する能力であり、目標を達成する力と効果性である。選択や決断を実行に移すエネルギーであり、深く身についている習慣を乗り越えて、より優れた効果的な習慣を身につける力のことである。
この4つの要素(安定性、方向性、知恵、力)は相互間系にある。安定性と明確な方向性を持つことにより知恵がもたらされ、知恵は力を大切な目標達成の方向に向かせる。この4つの要素のバランスを取ることにより、気高い、調和の取れた、美しく一体化された人格が形成される。つまり、これらの4つの要素は、自分の生活を安定させるものである。
親として極めて自然な役割は、息子を肯定し、愛し、尊び、彼の成長を楽しむことだと理解した。息子が「よい子」あるいは「できる子」であるということに心の安定を求めることをやめて、自分たちの内的な安定性を高めるように努めた。
自らの心を熱心に探せ。その中から命の泉はいずるからである。(聖書)
自分の人格に基本的な欠陥、二面性、あるいは不誠実さを持ちながら、テクニックや手法だけで人を動かしたり、仕事をさせたり、士気を高めようとしたりすれば、長期において成功することはできない。
農場で場当たり的な詰め込み主義で作業することの愚かさを考えたことがあるだろうか。−−春に種まきを忘れ、夏は遊び惚けて、秋になってから収穫を得るために必死になってがんばる。−−農場は自然のシステムである。必要な務めを果たし、作業を行わなければならない。蒔いたものしか刈り取ることはできない。そこに近道はない。
人の成長や人間関係においても、最終的にはこの原則が必ず作用することになる。つまり人の成長も人間関係も自然のシステムであり、農場の法則が支配しているのである。
学校のような人工的な社会システムでは、ゲームのルールを学べば、短期的にはごまかすことができるかもしれない。そしてまた、単発的、短期的な人間関係であれば、同じように個性主義を利用して、その人の趣味にあたかも興味があるふりをし、テクニックや殺し文句、流行のファッションなどを使い、よい印象を与えることは可能だろう。また手っ取り早くそうしたテクニックや手法を身につけて、活用することもできるだろう。
しかし、長期的な人間関係においては、こうした二次的なものだけでは何ら永続的な価値を生み出すことはできない。あなたに本当の誠実さや人格の良さがなければ、人の関係において大きな問題に直面したとき、あなたの本当の動機が表面に現れ、その結果、人間関係が崩れ、それまで得ていた見せかけの「成功」を失ってしまうことになるだろう。
表面的な成功(才能などに対する社会的評価)に恵まれた人の中でも、こうした真の成功(優れた人格を持つこと)を達成していない人もいる。しかし、遅かれ早かれ、このことは、その人の持つ長期的な人間関係のすべて−−仕事仲間、夫・妻、友人、大きな悩みを抱えている子どもなど−−において、あらわれてくるだろう。人格は、言葉よりもはるかに雄弁だからである。
パラダイムという言葉は、ギリシャ語に由来している。もともとは科学用語として使われていたが、最近ではモデル、理論、知覚、既成概念、仮定、あるいは一定した見地を指す言葉として広く使われている。もっと一般的にいえば、パラダイムは世界を見る見方であり、私たちの認識、理解、解釈を決めるものである。
人格主義と個性主義のいずれもが、社会的パラダイムの一例である。
ここでは、パラダイムを簡単に理解するために、地図に喩えてみることにしよう。地図と、地図の示している現実の場所そのものとは、同一ではない。地図は、現実のいくつかの側面を表現しているに過ぎない。パラダイムはそれと同じようなものだ。つまりパラダイムはある現実についての理論、説明、またはモデルのことである。
たとえば、シカゴに行く際、シカゴの道路地図を持っていれば、とても役に立つだろう。しかし、その地図が間違っていたらとしたら、どうなるだろうか。シカゴという表題のついている地図が、実は印刷ミスでデトロイトの地図だったらどうなるか。目的地に向かうときの苛立ちや効率の悪さを想像することができるだろうか。
そうなると、まず自分の行動を振り返り、改善しようとするだろう。たとえば、もっと熱心に目的地を探し、二倍の速度で走り回るかもしれない。しかし、そうした努力の結果といえば、間違った場所に二倍の速さでたどり着くだけである。
あるいは、自分の取ってきた態度を反省し、改善しようと試みるかもしれない。つまり、前向きに考えるということだ。この場合も目的地にはたどり着けないが、それは一向に気にならない。なぜなら、その場所がどこであっても、積極的でプラス志向になっているので、満足できるからである。
しかしながら、依然として道に迷っていることには変わりない。根本的な問題は、行動や態度とは何ら関係ない。すべては地図が間違っていることに起因しているのである。
(お互いのパラダイムが異なれば、)二人の人間が事実を見ながらも違う意見を持ち、しかもその両方ともが正しいことがありえるという事実を、衝撃的かつ鮮明に証明して見せた。
この演習は、私たちの生活や人間関係のあり方について実に多くのことを教えてくれるものである。
まず、経験によって条件付けが私たちの知覚やパラダイムにどれほど強烈な影響を与えているかをよく示している。ほんの十秒間程度の条件付けでさえ、これほどまで強く私たちの見方に大きな影響を与えているとすれば、今までの人生で受けてきた条件付けには、どれほど巨大な影響力があるだろうか。家族、学校、会社、友達、宗教、そして個性主義などの社会通念、それらすべてが無意識のうちに私たちに影響を与え、私たちのものの見方、パラダイム、頭の中の地図の形成に作用しているのだ。
この演習から、パラダイムが、私たちの行動や態度の源になっているということも分かる。自分のパラダイムと合わない行動を、正直な気持ちで行うことはできない。自分の見方と一致しない行動や言葉をもって、一貫性と誠実さを保つことは不可能である。‥‥(中略)‥‥
ここで、個性主義のおおきな欠点の一つが浮き彫りにされることになる。それは行動や態度の源泉であるパラダイムを見つめることなく、表面的な行動や態度を変えようとしても、長期的に見てほとんど意味がないということである。
この演習から選られるもう一つの教訓は、周りの人との接し方もパラダイムによって決まるということだ。自分は客観的かつ正確に物事を見ているつもりでも、他人もまた、鮮明かつ客観的にまったく違った見方をしている。「立場はその人の立っている場所によって異なる」ということである。
人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているに過ぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。しかし、この演習から学べるように、誠意があり勝つ知力に恵まれた人たちでも、それぞれの経験というレンズ(パラダイム)を通して、同じ事実について異なる見方をするのである。
これは、事実が存在しないということを意味するのではない。演習の中で違う条件付けを受けた二人が合成した絵をいっしょに見る場合、その二人ともが同じ事実を見ているのだ。すなわち、黒い線と白いスペースである。二人ともこの事実は認めるが、その事実をどう解釈するかは過去の経験によって決まるということなのである。事実そのものは、この解釈を抜きにすれば何の意味も成さない。
自分の持っているパラダイムとそこからもたらされる影響を意識すれば意識するほど、自分のパラダイムに対する責任が取れるようになる。つまり、自分のパラダイムを現実にすりあわせ、他の人の意見やパラダイムに耳を傾け、より客観的で完成された味方ができるようになるのだ。
よい方向であろうがなかろうが、一瞬にして起ころうが徐々に起ころうが、パラダイム転換によって、ある一つのものの見方が別の見方へと移行し、そしてその転換は大きな変化の原動力になる。正しくても間違っていても、私たちのパラダイムこそが私たちの行動や態度の源であり、やがては人間関係のあり方まで決めてしまうものなのである。
パラダイムを、人格から切り離すことはできない。それは「どうあるか」は「どう見るか」に直結しているからである。見方を変えれば、あり方も変わる。そしてその逆もしかりである。
余裕を持つ。(周りを冷静に見る。)
謙は亨る。君子に終わりあり。
つまり、原則は灯台である。それは破ることのできない自然の法則である。
『十戒』という映画の製作で有名になったセシル・B・デミル監督は次のように発言した。「神の律法(原則)を破ることはできない。それを破ろうとすれば自分自身が敗れるだけだ。」
わたしの言っている「原則」は難解なものでも、不可思議なものでも、また宗教的なものでもない。この本の中で述べる原則は、一つとして限られた宗教や信仰に属するものではない。こうした原則はすべての宗教、社会哲学、倫理体系の中に見つけることができる。どれも自明であり、私たちの生活の中で実証できるものばかりである。こうした原則、あるいは自然の法則は、人間の普遍的な意識、もしくは両親に属するものである。社会的な条件付けやその原則に対する忠実さの度合いは異なるとはいえ、こうした原則はどんな人の意識の中にも必ず存在している。
ここで言っている原則とは、例えば「正義」の土台となる「公正さ」である。子どもを見れば、条件付けや経験と関係なく、人間はこの公正さの感覚を生まれながらに持っているということがわかる。公正さの定義の仕方やその達成にいたるプロセスにはさまざまな違いがあっても、概念そのものは誰もが意識している。
また、他の例として、「誠実」と「正直」があげられる。この二つの原則は、協力関係や長期的な人間関係を育てるのに必要不可欠な土台をなすものである。
原則は手法ではない。手法は具体的な活動、あるいは行動である。したがって、ある状況で使える手法が必ずしも別の状況でも使えるとは限らない。二番目の子どもを最初の子どもと同じように育てようとしたことのある親なら、すぐに分かるはずだ。
手法はある特定の状況においてしか適用できないが、原則は深い基礎的な心理であり、普遍の応用がある。そして、個人、人間関係、家族、あらゆる組識に当てはめることができる。こうした心理を習慣として身につければ、人々は自分が直面している状況に対応できる手法を自分で打ち出すことができるのだ。
また、原則は価値観とも異なる。例えば、強盗段でも価値観を共有することはできる。しかし、その価値観はここで話している基本的な原則とはまったく違うものであり、それに相反するものである。原則は、“場所”そのものであり、価値観は“地図”である。正しい原則に価値をおけば、真理−−物事のあるがままの知識−−を手に入れることになる。
原則は、永続的な価値を持っており、人間の行動に正しい方向性を与えてくれるガイドラインとなる。それは基本的なものであり、しかもだれもが知っているので議論する余地すらない。それは、こういった原則に反する価値観に基づいて、質の高い生活を営もうとする愚かさを考えれば、すぐに分かることだ。不正、偽り、卑劣、無駄、凡庸、堕落などが、永続的な幸福と成功の健全な土台になると考える人はいないはずである。原則の定義や実行の仕方についてはいろいろな議論があるだろうが、人間は生まれながらにしてその存在を知り、それを意識しているのだ。
個性主義は時として成功しているかのようにみえるが、長期的には必ず化けの皮が剥される。個性主義は、人を欺きだますものだ。個性主義のテクニックや応急処置的な手法で質の高い生活を入れようとすることは、デトロイトの地図でシカゴの場所を探そうとするようなものである。
個性主義のもたらす結果を鋭く観察した心理学者エリック・フロムの言葉によれば、
「現代社会で出会う多くの人々は、まるでロボットのように機械的に振る舞い、自分のことを知り模せず理解することもない。唯一知っているのは、社会が要求しているイメージだけである。真のコミュニケーションをもたらす語らいの代わりに、意味のないおしゃべりを繰り返し、心からの笑いの代わりに見せかけだけの笑顔を作り、心底からの痛みの代わりに鈍い絶望感しか味わっていない。こうした人間についていえることが二つある。一つは、彼らが治療の施しようもないほど自発性と自分らしさの欠乏に悩んでいるということであり、もう一つは、実質的にほとんど私たちと変わりがないということだ。」
テニスやピアノなど、ごまかしがまったく聞かない分野において成長のレベルは意識しやすい。しかし、人格や精神の成長に関しては、ごまかしが効くこともあるので成長のレベルを簡単に測ることができない。他人の目を欺こうと格好をつけたり、着飾ったりすることは簡単である。できる振りをすることも可能だろう。自分自身さえも騙せるかもしれない。しかしながら、ほとんどの人は、自分自身の本当の人格レベルを知っているだろうし、長期的には周囲も必ずその真実を見ぬくだろうと、わたしは確信している。
「力を借りることは、弱さを作り出す。」まず、力を借りた人が弱くなる。なぜなら、物事を成し遂げるために、外的な力に一層依存するようになるからだ。そしてまた、強要された人も弱くなる。自主的な判断力や自制の力が育たないからである。最期にはお互いの関係も弱くなってしまう。協力の代わりに恐怖が生まれ、一方はますます横暴に、そして一方はますます防衛的になっていくからである。
体の大きさ、地位、権限、肩書き、用紙、過去の実績などが力の源泉になっている場合、それが変化したりなくなってしまったりすれば、果たしてどんな結果になるだろう。
#!H=2問題の見方が問題なのだ。
効率を上げることが本当に問題の根本的な問題になるのだろうか。より少ない時間でより多くのことを成し遂げるだけで、本当に生活がよくなるのだろうか。もしかすると効率を上げることによって、今自分の人生をコントロールしている状況や人に反応する時間が早まるだけではないのか。もっと深く根本的にみなければならないことはないだろうか。時間、人生、自分自身についてのパラダイムがこの問題を作り出しているということはないだろうか。
インサイド・アウトという新しい考えのレベル。
インサイド・アウトとは、自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム、人格、動機などを変えることから始めるということである。
このアプローチによれば、あなたが模し幸せな結婚生活を送りたければ、積極的なエネルギーを生みだし、消極的なエネルギーを消し去る伴侶になるということである。
子どもが、明るく協調性のある人間に育ってほしいと思うならば、子どもへの理解を深め、子どもの視点に立ち、一貫した愛を示す親になるということである。
‥‥(中略)‥‥
信頼されたければ、信頼性のある人間になるということである。
才能が認められるという二次的な成功がほしければ、まず人格と能力を向上させるという一時的な成功に焦点を合わせることである。
インサイド・アウトの考え方では、私的成功が公的成功に先立つ。つまり、他人に対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということである。また、人格よりも個性を優先することは愚かなことであり、自分自身を改善せずに他の人との関係を改善することは意味のないことだと教えている。
インサイド・アウトは、人間の成長と発展を左右する自然の原則に基づいた、継続的な再新再生のプロセスである。それは上向きの螺旋状に成長していく循環であり、次第に高まっていく責任感ある自立と効果的な相互依存に導くものである。
アウトサイド・イン(外から内へ)のやり方の結果としてわたしがみてきたものは、被害者意識に悩み自由を束縛された不幸な人々であり、自分のうまく行かない状況の責任を周りの人や環境のせいにする人々であった。不幸な結婚生活では、相手がまず変わることをお互いに要求し、相手の罪を言い立て、相手を正そうとしている夫婦を見てきた。また、労使間の争いでは、信頼という土台があるかのように行動することを強要する法律を政府に確立させようと、膨大な時間とエネルギーが無駄に費やされるありさまを見てきた。
‥‥(中略)‥‥
これらに関係しているグループは、それぞれ問題は「外」にあると考えており、彼ら---敵対する人々--が態度を改めるか、あるいはいなくなりさえすれば問題は解決すると考えている。
こうした原則を理解し、生活に取り入れるように誠心誠意努力するとき、私たちはT・S・エリオットの言葉にある真実を再三再四発見することになるだろう。
「われわれは探求をやめてはならない。そして、われわれはすべての探求の最後は、初めにいた場所に戻ることであり、その場所を初めて知ることである。」
習慣も極めて強い引力を持っている。それはたいていの人が考えている以上のものである。後回し、短期、批判、わがままなど、生活を支える原則に反する深く根づいた癖を捨てることは、弱い意志とわずかな努力だけでできるものではない。しかし、その引力からいったん脱出すれば、まったく新しい次元の自由を手に入れることができる。
ほかのすべての自然の力と同じように、引力は敵にも味方にもなり得る。習慣の持つ引力は、あなたが今行きたい方向に進むことを妨げているかもしれない。しかし同じに、引力によって地球は保たれ、惑星の軌道も宇宙の秩序も維持されていることも事実である。強い力だからこそ効果的に使えば、習慣の引力は有意義な生活を確立するのに必要な秩序を作り出してくれるのである。
「7つの習慣」はつながりのない断片的な行動規範ではない。それは正しい原則に基づいた順序だった、きわめて総合的な、私たちの生活や人間関係の効果性を向上させるアプローチである。この「7つの習慣」を身につけることにより、次第に依存から自立へ、そして自立から相互依存へと成長していく。
‥‥(中略)‥‥
つまり、自然や私たちの社会のすべては生態系的なシステムで成り立っていることに目覚めるのである。そして、自分の本質の最も崇高な部分は周りの人との関係に関わるものであり、人間の生活そのものも相互に依存し会っているということが分かるようになる。
幼年期から成人への成長は、自然の法則にしたがって進むものであるが、この成長にはさまざまな側面がある。肉体的に完全に成熟したとしても、これは精神的または知的に成熟したということを意味するものではない。また、肉体的に他人に頼らなければならないからといって精神的・情緒的に未熟だということを意味するわけでもない。
この成長のプロセスを理解するために、それぞれの成長のレベルにいる人の持つパラダイムを見てみることにしよう。
成長の連続体において依存状態にいる人は、「あなた」というパラダイムを持っている。「あなた」がわたしの世話をする。「あなた」が結果を出してくれる。「あなた」がやってくれないとだめだ。結果がでないのは「あなた」のせいだ、ということである。
自立は「私」というパラダイムである。「私」はできる。「私」の責任だ。「私」が結果を出す。「私」は選択できるということである。
そして、相互依存は「私たち」というパラダイムである。「私たち」はできる。「私たち」は協力する。「私たち」が才能と能力をあわせれば、もっとすばらしい結果を出すことができる、ということである。
依存している人は、欲しい結果を得るために他人に頼らなければならない。自立している人は、自分の努力によって欲しい結果を得ることができる。そして、相互依存をしている人々は、自分の努力と他人の努力を引き合わせて最大の成果を出すのである。
仮に私が、肉体的に依存しているとしたら(身体に不自由な個所がある場合など)あなたの手助けが必要になるだろう。また、精神的に依存していれば、(私の自尊心と安定性があなたの意見やわたしに対する評価に依存している場合)あなたに嫌われでもしたら大打撃を受けるだろう。知的に依存しているとすれば、生活の問題や課題について、あなたが考えてくれないと何も解決できないだろう。
しかし、自立していれば、肉体的に自分で行動ができるし、知的に自分で考えることができる。そして、さまざまなレベルで思考することができ、創造的に自分の考えを分析、整理し、分かりやすい方法でそれを表現することができる。精神的にも内的な安定性があり、他人が私のことをどう思おうと関係なく自尊心を持つことができる。自分の方向性は自分の中から出るものだからである。
このように、自立は依存よりもはるかに成熟した状態だということが容易に理解できる。自立だけでも大変な成功なのだ。しかし、自立は最も高いレベルではない。
それにもかかわらず、現代社会のパラダイムでは、自立を王座につかせている。自立は多くの個人、または多くの社会運動の公然たる目標になっている。自己改善の文献のほとんどは、コミュニケーションやチームワーク、あるいは協力などはまるで価値のない考え方のように扱っている。現代社会において、このように自立が強調されることの主原因は、今までの深い依存状態(他人にコントロールされ、定義づけられ、利用され、操られること)に対する反発である。
Group:=terra 刃を研ぐ
Title:=ゲームの理論によるWin-Winの実証。
From :=竹内久美子 賭博と国家と男
Create:=00/09/29 13:48
Udate :=00/09/29 14:18
ゲームの理論によるWin-Winの実証。
2000/09/29 13:50
前提:ゼロサムゲームではなく,ノンゼロサムゲームであること。(意味のない文章(^。^ゞ)
付き合い(つまりゲームで勝負)が十分な数だけ多いこと。
・「反復性囚人のジレンマ」ゲームにおける,「しっぺ返し」の勝利。
・非常に単純な原理に基づくプログラムだが,①一番最初に強調しようとすること。②自分からは決して裏切らず,相手が協調してきたときには必ず,協調しようと志向すること。
これは、Win-Winの関係といえる。
・対戦回数を増やしても,母集団に対して対戦対象を偏らせても,さらに悪意グループに入れても数人の仲間とともなら,確実に勝利を収める。